誰も知らない、学校の七不思議の七つ目のお話。
どうして誰も知らないと思う?
それはね、誰も知ってはいけないからなの。
生きてる人は、誰も…
来るんじゃなかった…。
里美は今、心の底から後悔していた。
灯りの消えた真っ暗な学校の中がこんなに怖いものだとは思いも寄らなかったのだもの。
英語の宿題のプリントを学校の机の中に忘れたことに気が付いたのは、夜十一時を廻ったくらい。
自転車で十五分もあれば行ける距離。
面倒くさいなという思いもあったけれど、明日の日付は丁度自分の出席番号と同じだ。先生に当てられる可能性は抜群に高い。授業は一時限目だから、友達のを写させてもらう時間もない。
かくして、毎日通っている高校に夜中に私服で行くことになったと言うわけだけど……。
さっと行って、さっと帰るだけよ。何も問題なんてあるわけない。
里美はもう少しだけ考えるべきだった。昼間にあんな話を聞かされたのに。
いつも一緒にお弁当を食べてるグループの、麻紀子と香奈が、言ってたじゃない。
学校にまつわる、怖い話を──
「七不思議?」
ウィンナーをつまんだ箸を持つ手を止めて、私は麻紀子に聞き返した。
「そう!どの学校にも必ずあるって言う、お決まりの怪談話よ」
んな事は知ってるよと思いつつ、その先を促した。
麻紀子は、よほどその話を喋りたいらしく、目がらんらんと輝いている。
そういえばこいつ、オカルト関係好きだもんね。
この前も、『エンジェルさま』とか言うこっくりさんもどきやってたし。
「でね、この前先輩に、その七つ目を聞いちゃったのよ!!」
まるで女優のような大仰な身振りを交えて、麻紀子が言った。
「だけどさ、七つ目って誰も知らなくて、もし知っちゃうと、不幸になるって聞いたけど…」
香奈が、購買部で購入したメロンパンをかじりながら呟いた。
怖い話は苦手だと言ってたけど、そこは怖いもの見たさなのか好奇心はあるみたい。
机の上にちょっと身を乗り出して、話に加わった。
「じゃ、これから一緒に不幸になってもらおうじゃない!」
怖がるどころか、私たちは、わくわくしながら七不思議について、昼休みの間、談義を交わしていた。
夜中に笑う骸骨標本、ひとりでに鳴り出すピアノ……。
今は夏で、退屈を紛らわせてくれる怖い話は大歓迎だった。
決して自分の身に降りかかる訳じゃない。
そんな怖いこと、実際に起こるわけないんだから──
「どうしてこんな時に、あんな話思い出すのよっ!!」
里美は小声で自分自身を罵った。
今は三階の廊下を脇目もふらずひたすら自分の教室を目指している最中。
蛍光灯一つ点いていない廊下は、窓から差し込む月明かりと非常口の表示が照らす緑色の光のお陰で、ようやく道が分かるという明るさしかない。
はっきり言って恐い。
今は夏で、気温も湿度も高いのに、里美の肌は粟立っていた。
そのくせ、掌とTシャツの背中には、冷たい汗がじっとりと滴っている。
白いスラックスで包まれた足は、急ぎ足のつもりなのに持ち主の命令を聞かず、まるでロボットのようにぎくしゃくとした動きで、ゆっくりとしか動かない。
昼のざわめきや明るい雰囲気が、この廊下に溢れていたなんて嘘の様だ。
夜の学校には、絶対何かいる。
誰かがその辺の暗がりから、じっとこちらを見つめている…。
ぶるぶるっと里美は激しく頭を振って弱気になる心を奮い立てた。
懐中電灯持ってくれば良かったな…。でも、そしたら窓に映る明かりで泥棒に間違えられるかもしれないし。
とにかく、早くプリントを手に入れて帰るのよ。
ようやく目的地にたどり着いた。
いつも通っている、自分の教室までの道のりがこんなに長いものとは思わなかった。
里美は月明かりにぼんやりと浮き上がる机の中から一番窓際の、前から3番目の席の机の中を探った。
今日の授業中に友達とやりとりした手紙や飴玉の紙屑でごちゃごちゃした中から、目指すプリントを引っぱり出した。
「あったー!」
思わずプリントを抱きしめる。
今からこれをやるとなると…今日は何時に寝られるかな。
教室の壁に掛かっている時計に目をやると、夜行塗料の文字盤は十一時三十分を指していた。
教室を出ようとして、ふっと、大きいガラス窓が視界に入りその向こうに見える真向かいの棟が目に入った。
そこは理科の実験室や調理実習室などが集まった北棟校舎。
昼間でも日当たりが悪くてじめじめしていて、この学校に巣食うものが居るとすれば棲みつくならあそこだろうと誰もが真っ先に考える棟。
四階建ての棟の三階部分の角部屋に、ぼんやりとした明かりが灯っているのが目に入ったのだ。
窓にはカーテンが引かれているので、中の様子は全く分からないが。
「用務員さんの見回り…?それにしては……」
用務員が見回るのなら、懐中電灯の明かりの筈だ。あれは、部屋の電灯の明かり。
もしかしてこんな時間に、私の様に忘れ物取りに来た人がいるの?
でも、あんな明かりを点けたら用務員さんに見つかっちゃうぞ。
ちょっと連帯感を感じた里美だったが、ふと考えて、恐ろしい答えに行き着いてしまった。
昼に麻紀子は何て言っていた?
『北棟の3階の一番奥の部屋…今は倉庫として使われている部屋があるでしょ?』
そうだ、あの部屋だ。今、明かりの灯っている、あの角の…。
こんな時間に、誰が倉庫に行くの?
里美の顔からすっと血の気が引いた。
里美も前にその部屋を覗いたことがあるが、生徒の作品とか過去の文化祭の展示物とかのガラクタが押し込まれているだけで、盗まれるようなものは何もない。
『夜になると、そこにね…』
麻紀子の声が耳元で聞こえた気がした。里美の足は、自然に北棟に向かって歩き出した。
恐い。
恐いんだけど──
誰かに操られる様に躊躇いもせず渡り廊下を通って、教室があった本館から北棟へ。
本館よりもっと暗くてじめっとした北棟の雰囲気は、ここに来て里美の恐怖を倍増させた。
頭と全身器官は、やめてやめろと怖がっているのに、足だけが何故か目的の場所に向かっている。
こんな恐い思いしても、何の得にもならないのに、何やってんだろ、私。
とうとう、問題の部屋の前に付いた。
閉ざされているドアは重いスチール製で、ここからでは中に誰か居るのか、明かりがついているのかは分からない。
ごくり。
里美は唾を飲み込んだ。
何やってんだろ、本当に私。
さっさと家に帰ってこのプリントやらないと、明日どうなると思ってるの。
そろそろと手をドアノブに伸ばした。
大丈夫。あんなの、作り話に決まってる──
「何やってんの?」
背後で、あまりに場違いな明るい声が聞こえた瞬間 、
「きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
里美は絶叫した。
腰を抜かして固いタイル張りの床にへたりこみながら、背後を振り返った。
『二人の女生徒の幽霊が出るんだって』
廊下の窓を背にして、同い年くらいの少女が立っていた。
肩で切り揃えられた黒髪、紺のカラーのセーラー服、足首までの白いスクールソックス。
どう見てもうちの学校の生徒だ。
その子は今の里美の悲鳴に面食らった様子で両耳を押さえたまま目を白黒させていた。
「びっくりしたぁ…スゴい声」
里美の悲鳴がまだ長い廊下をわんわんと反響している気がした。
実際にはそんなに大きな声では無かったのだろうけど、今までが静寂の世界だったから鼓膜が悲鳴を上げるほど大きく感じたのだ。
実際、そこまでの大声なら今頃用務員が血相を変えて飛び込んでくるだろう。
な…なんだ、本物の生徒じゃない。二人じゃないし。
目の前に現れた女生徒がとりあえず安心できる様だと確認すると、里美はさっき開けようとしたドアに背中をずりずり押しつけながらゆっくりと腰を上げた。
ショックでまだ下半身ががくがくする。
そんな里美の様子を興味しんしんの視線で眺めつつ、女生徒が話しかけてきた。
「制服じゃないけど、あなた、この学校の生徒?」
「う、うん…。課題のプリント忘れちゃって取りに来て……」
「あ!あなた、思い出した!!」
ずいっと女生徒が顔を近づけてきた。
「昼間、七不思議の話をしてた子でしょ」
「何でそれを…?!」
里美は仰天した。
この子は同じクラスには居ないし、同級生ならクラスは違っても顔くらいはだいたい知っているけど見た事ない。
学年が違うの?
彼女の上履きの色は赤だから三年生。 里美より一つ上だ。
でも昼休みの会話は教室の奥で話してたから、そんなところまで違う学年が入って来るかしら?
「甘いわね。その情報はマチガイよ」
女生徒は腕を組み、ゆっくりと頭を振った。妙に自信ありげに。
そういえば、この子はどうしてこんな時間にこんな場所にいるの?どうしてこんな時間なのに制服姿なの?
「だって…」
今までの明るい口調から一転して、にやりと不気味な笑いを浮かべた次の瞬間、
「私達は、七つ目を知った為に、こうなったんだもん」
言葉と同時に、足下からすーっと透明になっていく。目を見張った里美の目の前で、女生徒はふぅっと煙の様に姿を消した。
「……!」
今度は、悲鳴は里美の口から出なかった。代わりに、またもぺたりと腰を床に落とした。
目の錯覚じゃない。
今…目の前で、たった今まで言葉を交わしてた女生徒がかき消えた──!
「あ…ああ、あ……」
歯の根が合わず悲鳴も上げられず、泣きそうな顔の里美の前に、
「ほらっ!幽霊って消えたり飛んだりも出来るのよ~」
素っ頓狂な明るい声と共に、また、女生徒が唐突に姿を現した。
「…………」
もう悲鳴をあげるどころか、動けなかった。
咄嗟に確認した女生徒の足元には影もなく、背後の窓ガラスに映る姿は、恐怖に引きつった里美自身の姿しかない。
今、目の前にいるのは…正真正銘の…………?
にしては、妙に明るい…。
相手の陽気さのお陰で少し自分を取り戻した里美は、恐る恐る質問をしてみた。
さっき「私達は」って言っていた。
他の人は?
昼間聞いた七不思議に出てくる女生徒は二人。
それなら、あの話が指していたのは──
「あぁ、絵梨ならその辺を散歩してるんじゃないかしら?今日は月が綺麗だし」
女生徒の背後の窓には、満月が輝いていた。血のような赤い光を煌々と放つ、禍々しい月が。
「今夜のような日は、学校に棲んでる輩も騒ぎ出すだろうし」
さらりと意味ありげな事を言った。
「学校に棲んでるって…?」
恐怖は未だあるものの、里美はこの女生徒が自分に危害を加えるとはもう思わなかった。
まぁ、逃げたくても腰が立たないと言うのもあるけれど。
当の相手は、まるで入学式の時、初めて会うクラスメートに「よろしくね」と挨拶を交わす様ににこにこと笑っている。
「学校っていう空間には色々なものが棲みつきやすいからね。最近は、『エンジェルさま』とか『星の王子さま』とか妖しげなものが流行っちゃって、お陰で変な輩がよくやって来ること」
うんざりした表情で女生徒が答えた。
こっくりさんもどきの遊び。里美も時々参加して、たわいない悩み事などを相談したことがある。どうせ誰かが鉛筆や10円玉を動かしてるんだろうと思っていたけど…。
「ねぇ…あなたはどうして幽霊なの……?成仏しないの?」
言った後で、里美は後悔した。その言葉を聞いた相手が、哀しそうに顔を歪めたから。
「もう何年になるのかなぁ…」
しばらくして、女生徒が再び口を開いた。
セーラー服の肩口をすくめながら、目を閉じて語りだした。
死者が生者に向かって、自分の過去を──