「先生、そろそろ…」
最後の書類を自分の鞄に移した老教師が、力無く引き出しを閉めようと手を掛けたとき、職員室の戸口から若い体育教師が遠慮がちに声を掛けてきた。
「ああ」
伸ばした手を引っ込めて、老教師は頷いた。
今日はこの高校の卒業式、そして…彼の教職生活最後の日でもあった。
彼が担任した生徒達と共に、彼もこの学校から去るのである。

卒業証書授与、在校生の贈る言葉、卒業生の挨拶、蛍の光、校歌斉唱…

もう、何十と無く見てきた光景。
卒業式の後、残った在校生にこの教師が定年で本日この学校を去る事を告げる。
この高校一番の古株とはいえ、卒業式の華々しさには勝てない。
まるで、彼の教師生活を表すように、別れの挨拶もひっそりと終わった。

式が終わり、再び職員室に戻り、残った教師達と歓談。

「残念です」
「寂しくなりますね」

同じ台詞を何回も聞かされて何回も答える。

やがて今日の卒業式や卒業生達の話に皆の興味は移り、彼もまた自分の机…自分の物だった机に戻った。
鞄を手に取り、職員室の中を見回したが、誰ももう彼の方を見ようとしない。
それでもちょっと眼を細め、愛おしげに室内を見回していたが、その動きが止まった。
さっき、机の引き出しを閉めようとして忘れていたのを思い出したのだ。
しめようと手を掛けたが、もう中に忘れ物はなかっただろうか、と彼は思った。
さっき、中の書類も私物も全部取り出したと思ったが…。
一応の確認のため、再びスチール製の引き出しを引き出す。
もう、自分はここにいるべき存在ではないのに、何を未練がましくいつまでもまごまごしているのだろう。
そう思って苦笑したが、誰もそんな彼に目を留めてはいない。

やはり、引き出しの中は空だった。
ようやく安心して今度こそ閉めようとしたとき、奥の方でくしゃっという軽い音がした。
そして、何かが潰れるような感触。
「うん?」
奥の方に、書類か何か挟まっていたらしい。
引き出しの奥に手をつっこんでると、小さな紙の感触があった。
無理に引っぱり出すと破れそうなので、そうっと丁寧に引き出す。
メモ用紙かな?と思ったが、違った。
現れたのは…

「ああ……」

老教師の皺だらけの口から、驚愕と、喜びと、悲しみの混ざった吐息がもれた。

古い写真だった。
女生徒二人と、まだ若かった頃の彼の三人が収まっている。
一人は綺麗な黒髪が印象的で、もう一人は白いヘアバンドと茶色の髪が合っていた女生徒。

もう何十年前になるのだろう。
彼が昔顧問をやっていた部活の部員と部室で撮った記念写真だ。

名前は・・・斉藤と、北水…といったっけ。
心霊研究部という、マニアックな部活だった。
そのせいか部員は年々減り、この時代にはこの二人だけで、そして二人がいなくなってからはとうとう廃部になってしまった。
そう、この二人はいなくなったのだ。
ある日突然に…。
だから今でもこの二人のことは鮮明に覚えていた。

彼女たちは良いコンビだった。
それぞれクラスが違うくせにいつも仲良く二人で、楽しげに学校内を歩き回ってはあそこに幽霊が出るだの、この階段は夜になると段数が変わるだの言っていたっけ。
歴代の部員の中でも、一番生き生きしていた気がする。

彼は顧問と言ってもほとんど名ばかりのような物で、部活に顔を出すことは滅多になかった。
その当時は三年の数学を教えていたから、授業では顔を合わすこともあったが。
でも・・・彼女たちが消える数日前…たまたま覗いた部室で何か言葉を交わした気がする。

そう…確か…

「ねぇ。先生ってこの学校長いんですか?」
いつも悩みなんか無いんじゃないかと思うくらいの明るい声で、部長の斉藤が話しかけてきた。
「俺はこの学校に来て5年くらいだから、一応古い方になるのかな?」
「それじゃ、この学校の七不思議って知ってますか?」
授業中とかは大人しいくせに、部活の時は一気に元気になる北水も何だか目を輝かせて聞いてきた。
「七不思議?あの、学校の怪談の事かい?」
「そうそう!それです!!」

成程、こいつらの好きそうなネタだ。
学校に必ずある怪談話の類だ。
そういえば、俺の学生時代の頃は赤マントとか流行ったよな…。

「その、七つ目がどーしても分からないんですよ。6つ目までは分かったんですけど」
斉藤が肩を落として嘆いている。
北水も右に習うようにため息を吐いた。
さっきから二人が何を熱心に読んでいるのかと思ったら、歴代の心霊研究部の研究ファイルだった。
その中に、七不思議についての記述もあるにはあるが、全て6つ目で終わってしまっているのだという。
「先生は、七つ目知りませんか?」

すがるような目つきで、二人がこちらを見た。
こいつら、本気だ。

たかが怪談話にそこまで根性入れられるなら、もうちょっと勉強の方も・・・と言いたい言葉を飲み込んで、俺は言葉を探した。
俺だって、そういう霊とかの類の話は結構好きな方だからこの部活の顧問をやってるわけだし。
そういえば、この前定年間近の先生と雑談してる時、こいつらの話をしてたら、何か教えてくれたっけか。
学校にまつわる恐い話の謎が何たらかんたら…って。

「何でも、真夜中の学校に行けば分かるらしい…と聞いたことがあるけど」
「本当ですか?」
二人の女生徒の声が見事に重なった。
俺は、その先生の名前を挙げて、詳しいことを訊いてみれば、と言ってやった。
二人は、嬉しそうに頷いていたっけ…。

そして、その数日後…二人は消えた。
何があったのか分からない。
学校には二人の両親やPTA、警察、報道陣が押し掛け、数日間ワイドショーを賑わし、校長や二人の担任は、その対応に大忙しだった。
私は、部活の顧問と言うことで少しは話を聞かれたくらいだったが。
あの二人には、家出や自ら姿を消す動機は一切無かった。
しかも、学校に行ったまま帰らないと言うことから、誘拐だの変質者に襲われただの、色々な書き方で昼のワイドショーを賑わしたものだ。
…だが、それもすぐに忘れられた。

今、この高校で当時のあの二人の事を知っているのは私くらいのものだろう。
校長も代わり、二人の担任だった教師は、一人はとっくに退職し、一人は遠い学校に転任していった。
そして、もう私も…

今はもう年老いてしまった手で写真をそっと背広の胸ポケットに納めると、彼は今度こそ鞄を持って、職員室を出た。
他の教師はお喋りに夢中で、誰も気付かない。
消え去る古い物には、まるで無関心に。

職員用玄関を出て、ふと上を見上げると、春の陽のまぶしさに一瞬目が眩んだ。
視界が真っ白に染まる。
そして、その中から何かが舞い落ちてきた。

「雪…?」

思わず手を伸ばして、ふわりと落ちてきた白い物を掴む。

「桜か……」

薄紅色の花びらが、彼の手の平の中にあった。
そして、目の前には大きな桜の木。

ぼんやりと手の上の花びらを見つめていると、不意に声が聞こえた。

「先生」
「あなたももう、いっちゃうんですね」

はっと顔を上げると、いつの間にいたのか二人の女生徒が立っていた。

「え…?」

力無く垂れ下がった老教師の腕から、明日から用の無くなる鞄が滑り落ちた。

「長い間、お疲れさまでした」

雪のように桜の花びらが舞う中で、寂しそうに笑う二人の姿に見覚えがあった。
胸の中の写真と、数十年前の記憶と、目の前の光景が重なる…。

「お前達…!!」

老教師の叫びにも似た声は、突然の突風とそれに乗って激しくなった桜吹雪にかき消された。
その風が止んだとき・・・目の前には、ただ大きな桜の木だけがあった。

「ああ……」

老教師はよろよろと目の前の桜に近寄った。

今のは、私の幻覚か…?
さっき、懐かしい写真見たから…。

その傍らにある、ぼろぼろになった立て札とおぼしき物に目を留めて、彼は桜の樹の下に座り込んだ。
そうだ、この桜は、彼女達の学年が卒業するとき植えていった、記念植樹…。
もう、こんな立派な樹になったんだな…。

「お前達、まだここにいるのか?この学校に…」

お前達の卒業式は…

俯いた老教師の目尻から涙が溢れ、年月を感じさせる皺の刻まれた頬を流れ落ちていく。
それをいたわるように、頭上から絶え間無しに舞う桜の花びらが優しく辺りに降り注いでいった。