「ホント、あそこで会って良かったわー。一人じゃ怖すぎ!」
彼女は真っ暗な廊下を進みながら口を休めることなく喋り続けた。
「忘れ物なんて、明日だっていいじゃん!」
私はぶーたれながら彼女と並んで歩いていた。
文化祭以来訪れた、友人の高校。
彼女にとっては、昼間にもうイヤとなるほど見慣れている校舎だろうけれど、他校の私にとっては全く馴染みのない世界。
まるで他人の家に土足で踏み込んでしまった様な拒絶感。
非常口を知らせる緑色の明かりだけが灯る廊下に、二人分の外来者用スリッパが歩くペタペタと言う音が響く。
ああもう歩きにくいわね、大きすぎるよこのスリッパ。
私の手は、コートのポケットの中にあるものを自然にまさぐっていた。
何かしてないと落ち着かない。
たったこれだけで、何となく少し安心できる気がして。

「それに、この学校の七不思議にあるのよ」
階段を上りながら、彼女が言った。
七不思議?
ああ、学校の怪談話の事ね。
うちの高校にも何かイロイロあったなぁ。
この前の宿泊研修で盛り上がったっけ。
その夜は怖くて、結局みんな朝まで起きてたけど…。

「昔、夜に学校にいったまま帰ってこなかった女生徒がいるって」
彼女は、意味ありげに私の方を向いた。
「しかもさ、それ実話なんだよ。新聞にだって載ったんだから」
「やっ、やだぁ!こんな時に怖い事言うのやめてよっ!!」
私は彼女の腕にしがみついた。
ちょっとは演技入ってたけど、半分以上は本気で怖くなった。
だって、学校の怪談ってリアリティ有りすぎて。
本当に起こっても、全然違和感ないもの。
夜のこの校舎を見て、私はそう思う。

絶対、「何か」がいるって。

「ねえ、教室はまだなの?」
私は彼女を急かした。
「きゃはは、もしかして怖いの?」
私の恐怖心が、逆に彼女に勇気を与えたらしい。
さっきまであんなに怖がってたくせに。
私はムッと唇をとがらせ、もうここで踵を返して帰ってやろうかと思ったとき、
「……?」
廊下のどこかから、音がした。
「ね、何か聞こえない?」
私は彼女の袖を引っ張った。
「またまたー。今更脅かそうったって駄目だよん」
やっぱり、間違いじゃない。
コツコツと規則正しい音が、遠くから。
「ま、マジだって!ちょっと耳を澄ませてみて!!」
「はいー?」
彼女と私は足を止め、耳に意識を集中させた。

コツコツコツ

床を叩く固い音。
「ね?ね?」
「う、うん」
へらへらしていた彼女の顔がさっと強ばった。
そして、微かだった音は徐々に、でも確実に近くなってくる。
「用務員さんかも。やばっ!」
言われていれば、確かに靴音っぽい。
でも、何だかそれにしては随分と固い感じの音みたいだけど。
「ど、どうしよっ」
慌てふためき、私たちは周りを見回した。
まっすぐな廊下に隠れるところなんて、ない。
あるのは―――

「隠れよっ!」
彼女は咄嗟に目の前の教室の扉を開けた。
静かな廊下に、扉が動く音がやけに大きく響いた気がした。
今こちらに来ている相手に聞こえません様に…!
彼女と私、二人肩を押し合う様に教室の中へと飛び込んだ―――

「見つけた」

暗い教室の中、私たちの眼前に、誰かが立っていた。
「ぎゃあああああ!!」
それが、制服を着た女生徒だと認識する間も無く、私と友人の口から絶叫が迸った。
言葉にならない悲鳴を上げながら再び廊下に転げ戻ると、また、立ち塞がる影!

「見つけた」

高く黒い影は、確かにそう言った。
立ちつくす私の傍らから、鈍い音が聞こえた。
友人が、声もなく倒れたらしい。
ああ、どうして私は今、気絶できないんだろう。
一人現実逃避に成功した彼女を、私は心底恨んだ。
いつの間にか、固い靴音は止んでいるみたいだ。
そして、目の前の、すらりと高い、影。

「ヨシエ…!」

影が、口を開いた。
「この香り…。ああ、やはり、お前だ……!!」
若い男の人の声。
カラオケのマイクみたいなエコーがかかっている、低くぼんやりとした声に、私の血はまたも下がった。
これは、目の前のこの人は、普通じゃ、ない―――!!
マジ?うそ?!こんな事本当にあるわけが!!
ああ、だけど、どうしようどうしよう!!
えと、そ、そうよ、前にTVで見た。

霊に話しかけられても、口を聞くな。

私は、目を逸らしたまま震える唇をぐっと引き結んだ。
それでも、歯はがちがちと鳴り続け、
「…どうして、答えてくれない?」
哀しそうな声が、そんな私に向けられる。

駄目。
騙されちゃ、駄目。

廊下の窓が、不意に明るくなった。
雲が流れ現れた月明かりが、窓を通して目の前の影の顔をさぁっと蒼白く照らし出す。
光を追って、思わずその姿を見る。

生徒じゃ、なかった。
…一般人でも、無い。
歴史の教科書やTVでは見た事あるけれど、実物を見たのは、初めて。
私の目の前に立っているのは、カーキ色の軍服を着た、軍人だった。

「ひぃっ……!!」

くぐもった悲鳴が食いしばった私の口から漏れ出たけれど、それ以上は出せなかった。
背中を向けて逃げる事も、後ずさりすることも出来ず、私はその軍人さんの―――幽霊と相対しつづけなきゃならなかった。

「文化祭で会ったの、あなただったよね」

背後から、女の子の声がした。
「?!」
心臓が、止まるかと思った。
その場でびくんと飛び上がって反射的に顔をちょっとだけ後ろに向けると、見覚えのある女生徒が教室の中から入り口へと出てくるところだった。

「あなた、は…!」

私は、安堵の余り泣きそうだった。
白いヘアバンドをした彼女に、見覚えがあったから。
友人は気絶し、一人ぼっちでお化けと対面しているときに、一応見知った人に会えたのだから。
普通に考えれば、その子だって十分を直球で過ぎるほど怪しかったのだけど、その時の私は普通じゃなかったから。

「この軍人さん、記憶が無いんだってさ。でも、あなたの香りだけは昔嗅いだって言うんだけど」

彼女の後ろからもう一人、明るい声と共にひょいと顔を出した。
あれ、教室にもう一人いたの?
自分と同じ年頃で制服姿なのも安心できた。
それに何より、その話し方は普段同級生と交わす口調そのままだったから。

「で、あなたがヨシエさん?」

おかっぱ頭の女生徒の問いかけに、私は反射的に首をぶんぶんっと横に振った。
誰よそれ!
香り?!
シャンプーだっていつも通りだし、コロンなんて付けてないし…
何を言ってるの――
思わずポケットの中で掴んでいたお守りの感触が、ふと脳を刺激した。

「あ……」

香り…?

「こ、れ…?」

恐る恐る、私はコートのポケットからいつも持ち歩いている小袋を取り出した。
赤い小さな巾着袋。
すごくいい香りがするの。
中にお香が入っているんだって。
子供の頃、おばあちゃんから貰ったお守り。
おばあちゃんのお母さんが、自分と、お兄さんのために作ってくれたんだって。
香りは、災いから守ってくれるから。
子供の私は、この香りがとても好きで、根負けしたおばあちゃんに譲って貰えたときは大はしゃぎしていた。
そして今も、こうして 身につけたまま―――

「やっぱり…!ヨシエ!私だ!!ほら!!」

軍人さんが、ほとんど怒鳴るみたいな声を出しながら、ポケットに手をつっこんだ。
そして再び引き出した時、その手には赤い巾着袋が握られていた。
―――私と全く同じ、お揃いの。
…なに?どうなってるの………?
頭の中がぐるぐるした。
目の前のお化けは、私の事をヨシエと呼んで、おばあちゃんからもらったお守りと同じものを持ってる…

「あーっ、お揃い!じゃあ、やっぱりあなただったんだ!この人の親戚」

二人の女の子は顔を見合わせて何だか盛り上がってる。

「…遊びに行ったとき、おばあちゃんが、よく言ってたの」

自分に科したはずの戒めを破り、私は口を開いた。
端から聞けば、単なる独り言にしか聞こえない、ぼそぼそとした声だけれど、自分では精一杯の勇気を振り絞って。
「兄さまは結婚することもなく、御国のために散ってしまったって」
「………」
この幽霊に会った事なんて無い。
だけど、分かる。
血が呼ぶ魂の繋がりなんてものがこの世にあるのなら、

「お前の名は?」

おばあちゃんから聞いた昔話に間違いがなければ、

「…良子、だよ……」

目の前のこの軍人さんの名前は―――

「良雄、おじちゃん―――」

「泣いて、くれるのか?」
軍人さんが、私の頬に手を伸ばしてきた。
私は避けなかった。
でも、確かに手が触れているはずなのに、何の感触も感じない。
温かくも冷たくもない。…触れられている感触すら、感じられない。
「…これが、生きていると言う事か」
軍人さん―――叔父の表情が歪んだ。
「自分は、泣けない。涙はとうに、戦友達の為に枯れ果てた」
私の頬に当てていた手を、今度は自分の顔に当てた。
「これが、死んでいるという事か」
涙こそないけれど、その顔は、泣いていた。
「良江に伝えて欲しい」
私から一歩下がり、彼は言った。
「苦労をかけてすまなかった。愛している、と」
「おじちゃっ…!」
手を伸ばしたその先で、彼の姿が揺らいだ。
黒く、廊下の向こうが透けて見えた。

「良江も、そして、お前も。良子」

後で聞いた。
あの高校があった場所は、昔、日本軍の航空演習場だったって。
お父さんの転勤で、私が生まれる前に今の家に引っ越してきたのは、偶然だったのだろうか。
夏休みに両親と共に遊びに行った祖母の家で、私はぼんやりとそんな事を考えていた。
仏間の上に飾られた、唇を引き結ぶ凛々しく若い叔父の遺影を見上げながら、祖母に叔父の話をせがんだ。
身籠もっていた妹の身を案じながら、出征していった叔父の事。
生まれる子が男か女かも知らず、散ってしまった。
その後の苦労よりも、大好きだった兄に子供の顔すら見せられなかったのが一番辛かった…と語る祖母に、教えてあげたかった。

姪の子の顔は、見せられたんだよ、って。

そして、今も思う。

あの夜、学校で私達を引き合わせてくれた女の子達は、誰だったんだろう――

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