学年名簿には、どこをひっくり返しても『斉藤美加』の名前は掲載されていなかった。
偽名?
だが、あの時初対面だった僕に、しかも自分から名乗ったのに、わざわざ偽名を使うか?
僕は頭を抱えた。
ここのところ、斉藤は屋上に現れなくなった。
避けられてるのだろうか。
何か嫌われることしたかな…。
悶々と考えつつ、何で他人のことをこんなに気にしてるんだろうと、はっと我に返ると気恥ずかしくなってしまう。
他人と付き合うなんて興味なかったはずなのに。
いくら最初の出会い方がインパクトあったからって…。

屋上の柵の上に危なげなく腰掛けていた女学生。
いや、確かにその体勢にも度肝を抜かれたが、一番印象に残ったのが…あの表情。
全てを諦めたようで…だけど泣きそうな目をしていた女の子。

あの子は、誰だったんだ…?

今日も屋上で昼休みと放課後を黙然と過ごした。
無駄だって分かってやってるつもりだけど、やはり帰るときは空しくなる。
最終下校時刻を知らせる「蛍の光」が流れ出した時点でようやく重くなった腰をあげて校舎内に戻る。
昇降口に向かう途中、片手が寂しいことに気が付いた。
いつもは鞄を持って屋上に行くのに、今日は教室におきっぱなしのままだったんだ。
舌打ちして、教室に引き返したころには、すっかり日が落ちて暗くなっていた。
電灯をつけるのも何となく憚られて、廊下に灯されている淡い緑色の非常口の明かりだけを頼りに、廊下側の僕の席を探し当て、机の横に掛けられていた学生鞄を手に取る。
顔を上げて、ふと窓の方に目をやって、僕はぎょっと立ちすくんでしまった。
真っ暗な教室の中に、もう一人生徒が残っていたのだ。
女子生徒がこちらに背を向けて、窓の外を見ているようだ。

なにやってんだ?こいつ。明かりも点けないで…。

訝しげな僕の視線に気付いていないのか、少しも身動きせずこちらを振り向こうともしない。

まぁ、誰が何しようとしったこっちゃないか。

僕はいつもの通り割り切って、声を掛けずにそのまま教室を出ようとして…足を止めた。

もう一度女生徒に視線を戻す。
肩まで伸びた髪、華奢な肩幅、どこかで見た、後ろ姿…

「斉藤…?」

思わず呼び掛けていた。
廊下側から窓側に呼び掛けるには到底聞き取れないはずの小声だったが、その呼びかけに相手はゆっくりと振り向いた。

「斉藤!」
僕は驚きの余り鞄を取り落とした。
「お前…なにやってんだ?こんなところで」
訊きたいことは山ほどあったのに、最初に出てきた言葉がコレだ。
情けないほど僕は動揺していた。
駆け寄りたくなる衝動を抑えて、僕は動かなかった。
斉藤も、窓際からこちらに微笑むだけで動かない。
「と、取り合えす、ここから出ないと。もう下校時刻は過ぎてるんだから」
いつの間にか「蛍の光」は止んでいた。
僕の呼びかけに応えて、斉藤もゆっくりこちらに近づいてきた。
安堵した僕は、床に落とした鞄を拾おうと屈んだ。
その腕を、すっと冷たい手が押さえた。
「え?」
驚いて顔を上げると、斉藤の顔が目の前にあった。

「川岸くん」

初めて斉藤が口を開いた。
だが、いつもと違う。
屋上で見せていたような、快活な声と表情は消え失せ、どこか媚びるような雰囲気を出していた。

「こんな時間まで、あなたこそ何やってたの?」

間近で問いつめられて、僕は何となく息苦しくなった。

「別に…」
ありふれた答えはあっさりと却下された。

「知ってるんだよ。さっきまで、屋上にいた。あたしに会いたかったんでしょう?」

どくん、と心臓が跳ね上がった。
斉藤が、あそこにいた?
なら、何故姿を見せなかったんだ。
僕をからかってた…?

恥ずかしさと怒りがこみ上げたが、次の一言でそれはあっけなく砕かれた。

「あたし、川岸君好きだよ」

え?
空白になった意識を何とか引き戻して、まじまじと斉藤の顔を見る。
視線を受けて、斉藤も僕の目を見返した。

「川岸君は?」
問われて、僕は耳まで真っ赤になった。
ようやく再会したと思ったら、告白??!!
生まれて初めてされた経験に、僕はパニックに陥っていた。
それでも、ようやく答えた。
蚊の鳴くような小さな声で、「僕も……」と。

その答えを聞いて、斉藤がまた笑った。
そして僕の目をのぞき込んで囁いてくる。
「じゃあ、一緒にいようよ」
じっと大きな瞳に見つめられて、気が遠くなりかけたとき、冷たい手が僕の頬を包んでくるのが分かった。

「そう、あなたはこの女と一緒に。ソシテ…」

斉藤の声が、ヘンだった。
斉藤の声と、嗄れた声がステレオになって喋っている。
でも、僕にはそれがどういうことだか考える意識も残っていなかった。

斉藤の顔が僕に迫ってくるのをぼんやりと見つめていたその時。

「美加ぁ!!」

甲高い女の声が聞こえ、僕ははっと意識を取り戻した。
斉藤が僕をすごい力で突き放す。
その拍子に僕のメガネが外れ、固い音を立てて床に転がった。

「ちがう…ちがう!あたしは……もう!!!」

斉藤の叫び声が聞こえた。
メガネを失った僕には、暗闇の光景はほとんど見えない。
ただ、斉藤が身をよじっているのと、さっきまで斉藤が立っていた窓辺に別の人影が立っているのがぼんやりと見えただけだ。
必死になって手探りでメガネを探すが、なかなか見つからない。

視界ははっきりしなくとも、声だけは聞こえる。

オ前ダッテ、コノ男ト一緒ニイタイト思ッタクセニ

男か女か分からない声が、陰鬱と響いている。

死ンデイル奴ガ生キテイル奴トイタイノナラ 道ハヒトツ

眼鏡を探す手が止まった。
今、何だって?
くぐもって聞き取りにくい声も、今の言葉だけははっきりと聞こえた。

今の声は、一体誰のことを言ったんだ?

どういう事だ?
僕の頭はスパーク寸前だった。
思わず斉藤の方を見るが、斉藤はどっちを向いているのかよく分からない。
せめて、教室の明かりがついていれば…!
とにかく、眼鏡を!

そのうち、机の下できらりと光るものが目に入った。
あれか!
必死になりすぎて、注意を怠った。
勢いよく手を伸ばした拍子に机の角に頭を思いっきりぶつけ、痛いと思う間もなく、それこそ自分のドジさを笑うヒマもなく、僕の意識は暗い闇の中へ落ちていった。

絵梨の声で、あたしは我に返った。

あたしは、何をしてた…?

「ちがう…ちがう!」

いや、本当は分かっている。
今までの光景を、ぼんやりと黒い霞がかかった意識の中で見ていた。
あたしは、生きてる人間を巻き込もうとした………!

自分の浅ましさと愚かさに激怒したは私は、今はもう無いはずの心臓が一気に破裂しそうな感覚に襲われた。

「あたしは……もう!!!」

死んでるの!
生き返ることなど出来ない!!
生きてる人間を羨んだってどうしようもないのよ!!!

分かってる!
分かってる!!
分かってる!!!

あたしはぐっと自分の胸に手を突き入れた。
もはや実体ではない、霊体でしかないこの体を手で貫いても、血なんて出てこない。
内臓の代わりに引き出されてきたのは、黒い固まり。
びくんびくんと私の手の中で生き物のように跳ねていたかと思うと、ばっと霧状になり、私の前で徐々にまた固まり始め、朧気ながらも人の形を取り始めた。

モウ少シダッタノニ…!

歯ぎしりするような音と、耳を塞ぎたくなるようなおそましい呪詛の声。
影の所々にぼうっと浮かぶのは、醜く憎悪に歪んだ人の顔、顔、顔。
ある顔は哀しげで、ある顔は憤激し、ある顔はおぞましく…。

「美加!大丈夫?」
絵梨が私の側に寄ってきた。
その間も、私はその化け物から視線をはずさなかった。
「許さない…」
低級霊だって、数が集まればある程度の力が出る。
それでも学校という世界に縛られてるあたし達には叶わない。
叶わないはずだった。
普通の状態なら。

あたしがあの人に惹かれているのを知られた。
だから、こいつらは私を乗っ取って、生きてる人間の体を手に入れようとした。
憑依しようとしたのか、それとも魂だけを取り込もうとしたのか。
どちらにしろ、私はまんまと利用されたのだ。

死ンデイル奴ガ生キテイル奴トイタイノナラ、取ル道ハヒトツダロウ?

はっと、あたしは川岸君に目をやってしまった。
彼も、こちらを見ている。
目が合った気がした。

聞かれた?!
知られた!
あたしの正体!!

「許さない」

もう一度口に出した。
許すことなど出来はしない。
あたしの姿で、私の声で、こいつらは…。
どこかでゴンッという鈍い音が聞こえたが、気にする余裕はなかった。
さっきまでの感情の高ぶりは消え失せ、逆に心は氷のように冷え切っていた。

再び川岸君に目をやると、何故だか彼は机の側でのびていた。
意識を失ってるらしい。
この低級霊達の仕業ではなさそうだが。
まぁ、いいわ。
学校に何ら関係ない浮遊霊達が、『学校』という世界の中の『学生』に勝てると思うの?
あたしを敵にするとはいい度胸だね。

傍らの絵梨は、何も言わなかった。