「あの部屋に残されていたディスクは残念ながら、全て綺麗にフォーマットされておりました」
その一言を告げられても、言われた当の相手はそう落胆はしなかった。
興味なさげに軽く鼻を鳴らして、先を促す。
てっきり無能と罵られるものと怯えていた若い士官は、その様子に多少戸惑いつつも、報告を続けた。
「突撃の混乱が治まらぬ内に乗じて外部から操作されたものと思われます。その点からでも、あの住人はただのスラムの浮浪児と言うわけではなさそうです」
「子供の電脳師…?まぁ、姿形などいくらでも変えられるだろうが」
細身の軍服姿は、部下の報告を一通り聞き終えると、再び思考に耽った。
数日前に取り逃がした獲物。
子供といたと言う証言があり、しかもただの無能なガキではなさそうだと言う事で、身元を洗わせている。
あまり意味の無い事だと思っていたが、どこから活路が開けるかは分らない。
とりあえず、出来る事はやっておこう。
スラムに逃げ込む事は簡単に予想出来た事だが、厄介な事に変わりはない。
掃溜めには掃溜めのルールがあり、シティの秩序は介入出来ない。
それでも、たかが脱走兵一人、簡単に補足出来るはずだったのだ。
発信器もあり、何より軍部=国家を相手に、一個人が対応出来るわけもない。
それが、極秘事項の実験体の唯一つの成功例であっても、だ。
なのに現実は――
歯がみし、そして、数時間前に宣戦布告に来た女の事を思い出した。
自分を『出来損ない』と嗤った女。
確かに、逃亡者を捕まえる事が、今の自分に与えられた最優先命令だ。
軍人としての理性は、そう。
だが、感情はまた別のもの。
「シリア…!」
椅子の肘掛けが、握りしめた手の下で亀裂の入る音がした。

「ぐぇっ!」
蛙が踏みつぶされた様な声は、突然ダニエルの膝ががくんと折れたのを、シリアが襟首を掴んで止めた結果だ。
「大丈夫か」
気遣う言葉と裏腹に、シリアの声は平静そのもの。
「く、首離せ…っ!」
じたばたと暴れるダニエル。
まだ襟首を掴んだままだったのか。
「だわっ!」
素直に従ったシリアに解放された途端、ダニエルの小さな身体はよろけ、バランスを崩して道端に積まれたゴミの山へと豪快に突っ込んだ。
「何を遊んでるんだ?坊や」
どこまでも静かな声に貫かれ、ゴミバケツに縋り付く格好になったダニエルは、顔の前にずり落ちたベレー帽の下で心底泣きたくなった。
ロナルドの店を出て、地下鉄で2駅移動したものの、変わらないスラムの通りを、あてどない様に彷徨う二人。
それなのに、ダニエルの疲労は気力でも誤魔化しきれないほどに限界がきていた。
昨夜もうたた寝程度しか睡眠を取っていない。
大幅にその肉体を強化されているシリアと違い、生身の12歳であるダニエルに、今は何よりも休息が必要だった。
ダニエルの様子に、通常の人間の感覚からは縁遠い流石のシリアでも、気を遣ってと思われる言葉をかけたが、
「ぜぇぇぇってー断るっ!!」
と、少年はにべもなく首を大きく左右に振った。
年上とは言え女に、それもこの年になって、
「おぶってやる」
と言われ、素直に頷ける訳がない。
例えそれを理由に持ち出したとしても、
「くだらない事に拘ってる場合か」
と、元軍人に相応しい冷静な口ぶりで一蹴されるのがオチだから。
ロナルドのヤサで休ませてもらう手もあったが、それも危険。
いくらシリアにぞっこんとはいえ、ひとたび儲けの匂いをかぎつければ、そこは商人。感情よりも損得が勝り、寝込みを襲われて気がつけば軍の護送車の中、あいつはダニエルとシリアに懺悔しつつ多額のクレジットを抱えて―――
あまりにもリアルに想像出来てしまう事に、ぞっとダニエルは身震いした。
「じゃあ、またそこらに潜むか」
ゴミの小山からダニエルの襟首を掴んで引き出しつつ、シリアは回りの、夕闇に沈み欠けた廃ビル群を見回した。
いや、ただの廃ビルに見えても、その中のいくつか、地下や奥にはアンダーグラウンドに潜む事を余儀なくされている連中が巣を張っているだろうが。
そいつらがごねてきたら、一時の休憩場所として「代金」を支払ってやればいい――
「いや、もう少しだけ歩けば、俺んちがあるんだ」
まだ壊れていない街灯がぽつぽつと灯り始めたストリートを、シリアの手を振り払ってダニエルは歩き出した。
何の考えも無しに、ただ彷徨っているわけではなかった。
ここでダニエルはまたしても、年齢に不相応な手回しの良さを披露する。
軍から脱走してすぐにダニエルが確保したのは、複数の『ベッド』―――いわゆる隠れ家だ。
一室に安穏と住み続けられる平和な身分ではない事は百も承知だが、拠点と出来るねぐらは欲しい。
そのため、スラムの地下やダウンタウンにいくつかの部屋をネット上で契約し借り上げてある。
その内のひとつが、この通りだったはず。
まだ実際の物件を見たわけではないが、これ以上往来を歩き続けて目撃情報を垂れ流すよりは、遙かに安全な筈だ。
その身体一つでどんな事態も乗り越えて見せるつもりだったシリアには、その計画性にまたしても驚かされた。
きっと、この坊やがいなければ、今頃は自分は本当にのたれ死んでいたかもしれない。
そう感謝の念を抱いたのかどうか。
ねぐらの事を告げられても、
「そうか」
と頷くシリアの表情は、相変わらず毛一筋ほども動かなかったから。

廃墟となって久しい工場跡を、風が吹き抜けた。
エネルギー供給を打ち切られ放置された作業用機械の墓場を通り抜け、奥にひっそりとある小さな扉へと続く。
その先を閉ざす鍵は、アナクロ式のドアノブを右へ二回、左へ三回回すというもの。
これは、ここを借り受けた時にダニエル自身が設置した物だ。
指紋や眼紋認識装置など、巧妙に作られた義体の前では意味がなく、こうした昔のやり方の方が今の時代大きな威力を発揮すると悟っているのは、電脳師ならではの感覚だろう。
もっとも、そんな手間をかけてまで押し入ったって、こんな金目の全くない部屋にその価値など見出せやしないだろうが。

だって、ダニエル自身が、最大の価値あるものなのだもの。

「おっけ」
カチャリと小気味のいい音と共に、扉は開いた。
見た目はボロいドアだが、チタン合金を挟ませた特注品だ。
万が一の事態にもしばらくは持ちこたえるだろう。
「実は俺もここ、借りてから来るのは初めてなんだけどな」
招き入れられた室内は、彼の最初のヤサよりも狭苦しく窓一つも無い。
置いてあるのは小さなベッドとテーブルだけの、簡素な部屋。
それでも、今は天国にすら見える憩いの場。
工場のエネルギーは止められているはずなのに照明が点いているのは、他からこっそり電気を引いているのだろう。
「も、俺ダメ……」
シャワーも浴びず、上着すら脱がずにダニエルはベッドに文字通り突っ伏した。
何事か呟いたかと思うと、すぐに規則正しい寝息が聞こえて始めた。
そんな少年の様子を、シリアは傍らに腰掛けしばらく見つめていた。

shilia6

疲れた寝顔。
それにかかる乱れた黒髪を、そっと指を伸ばして撫で付けてやる。
――ここまでして、この坊やはどうして自分などに関わってくるのだろう。
シリアには、まるで分らない。
理解出来ない思考。
脱走者という、同じ境遇に対する思いから?
シーツに顔を押しつけながら坊やが呟いた言葉。

「俺が起きるまで…絶対潜るなよ……」

眠りに落ちる直前まで、彼は自分の事を気にしていた。
子供のくせに、年不相応に大人びた坊や。
一緒にいると、シリアの方が子供の気分だ。
全く、人の事より自分をもっと気遣えばいいものを。
くすりと漏れた笑いに、当のシリアが驚いた。
…笑った?
人差し指を、軽く唇に当ててみる。
唇は、確かに笑う形になっていた。
意識した途端すぐに戻ってしまったけれど。
何故?
その「何故」は、「どうして笑ったのか」に対しての疑問なのか、「どうして笑えるのか」にだったのか。
「……」
端末の電源を入れ、繋いだバイザーでその両眼を覆い、気持ちのスイッチをも入れ替える。
「『SARAH』…」
システムが立ち上がる間、口の中でシリアは何度も呟く。
覚えがないはずの名前。
なのに、何かが心の網に引っかかり爪を立てる。
無くした記憶。まさにそれが関わるのだろうか。
そんな事をぼんやりと考えている内に、端末の準備は終わった。
ネットに潜るのは久しぶり。
こういった細かい事に神経を使う作業より、肉弾戦の方が余程自分に向いている、とシリアは思う。
――例え、歩く兵器と蔑まされようと。
軽く頭を振って、余計な思考を追い払う。
とりあえず、ネットに軽くアクセスして、何も問題が無い様ならば改めて軍のアドレスへダイブしよう。
そう、まずは様子見のために。
ダニエルの警告もある。
「……」
バイザー越しに、緑の視界の中横たわるダニエルを見やる。
絶対自分を置いてネットに入るなと最後まで喚いていた少年。
信用していないわけではない。
むしろ、電脳師としての能力は自分が太刀打ち出来ないものと評価もしている。
だが…これは自分の問題。
そして追われているのも、自分だけ。
謎のプログラムに襲われ、苦悶したダニエルの姿を今でも忘れられない。
―――リスクを負うのも、あたしだけでいい。
数瞬の躊躇いの後、結論を下した白い指はキーの一つを押した。
一瞬にして五感の電子変換が行われる。
『アクセス・スタート』
その表示がシリアの意識に示された瞬間。
「……っ?!」
突如侵入してきた、ある一文。
そして、同時に白い光の中浮かぶ小さなシルエット――
それは誰だと思う間もなく、シリアの意識は、

ホワイトアウトした。

 

虫の知らせか、電脳師としての本能が囁いたのか、ダニエルはまさにその瞬間、ぱちりと目を覚ました。
がばっと跳ね起きて目に入ったのは、薄暗い間接照明の中、 まるで魂の無いマネキンの様に無防備に横たわる少女の姿。
その頭部にはネットダイブ用のバイザー、そして片手がキーボードにかけられた自分の端末。
現状を一瞬にしてダニエルは悟った。
「ばっかやろう!」
血相を変えながら叫んでシリアの腕の中の端末を奪い取る。
そして、モニタに表示された文字を見てダニエルは凍り付いた。
真っ白な画面に、ただ一行。

オカエリ シリア

「・・・・・・・・・」
蒼白な顔を、横たわるシリアへと向ける。
バイザー越しに見える瞼が閉じられた顔は、ただ眠っているだけの様に見える。
だが、眠りと違うのは、シリアの意識は今その肉体の中に残されていないという事。
「なんだよ…これ……」
シリアのデータをコピーしようとして失敗した出来事が甦る。
謎のコピーガード。
自分より強いガーディアン能力を示した、シリアの守護者。
「SARAH…!」
見知らぬ名前を罵りつつ、無意識に指はキーボードを奔り、基本的な手順を進めていく。
『アクセス・スタート』
とりあえずは、シリアの痕跡を探って連れ戻す事からだ。
端末のアクセス記録からすると、シリアが潜ったのは2分前。
まだ、今なら容易に追えるはず。
それでも嫌な予感は振り切れない。
(早く…早く立ち上がれよ!このトロいCPUがぁぁ!!)
ダニエルの小さな心臓は目が覚めた瞬間からトップギアに入りっぱなしだ。
嫌な汗が掌に滲むのを敢えて気にしない様にして、意識を目の前の端末へと集中する。
シリアが残した履歴を追うのと並行して、彼女の意識の居場所を検索にかける。
どうせ、軍関係のカテゴリだろうけど…

『Not Found』

ピーッと虚しい警告音と共に、 シリアの名を示した文の下の行に示された、信じられない表示。

「な…!ちょっ、こら、無いってどういうことだよ!?」
急いで、再度の検索を試みる。

『Not Found』
『Not Found』
『Not Found』

結果は同じ。
シリアの意識はこのネットに無い、と、サーチエンジンは答えたのだ。
履歴すらも。
何者か―――つまりはシリアがこの端末からアクセスした形跡はあるのに、シリア個人の痕跡は何一つ残されていなかった。
ダニエルが組んでいた高レベルの防壁も何の役にも立たず、「誰か」はこの端末に易々と侵入し干渉したのだ。

「んな…馬鹿言ってんじゃねーっ!!」
俺の設定が…俺以上の奴が……?!
シリアの心配と、崩壊しかける自分のプライドを必死に堰き止めつつ、ダニエルは部屋に転がっていたスペアのバイザーをひっかぶると、ケーブルを端末の予備ポートへとぶち込んだ。
本来なら、こんな小さな端末で複数人での電脳へのアクセスは無理だ。
この予備ポートだって、通常なら他の端末とアナログに繋ぐためにあるもの。
だが、そこは特A級と呼ばれる電脳師。
ハードの不足は、『電脳師・ダニエル』と言うソフト―――自身の能力で補ってみせる。
叩き付ける様にキーを乱打し、あっという間に設定を整えた。

『アクセス・スタート』

ネットダイブへの準備が整うと同時に、躊躇いも無くダニエルは電脳の海へと意識を踊らせた。