その夜の始まりは、すさまじい爆音。
事もあろうに、厳重な警備網を誇る軍施設の中から火の手は上がった。
それだけなら、訓練された軍人たちが狼狽えるはずもない。
通常であるなら、それはあっという間に消し去れるささいなトラブルにしか過ぎないはずだった。
今回ばかりはそうはいかなかったのだ。

「第47ブロック、隔壁閉鎖!」
「第115地区、応答せよ!!」

指揮官たちの怒号と、部下の混乱が基地内で渦を巻いた。

「奴は何処行った?!今は消火活動よりも、そっちが先だ!!」

スラムの一角で響いた派手な物音に、横倒しのゴミバケツを漁っていた斑猫はピクンと耳をそば立てた。
嘲りの言葉と、何かを殴る音が聞こえる。
暴力や犯罪など、ここでは日常茶飯事のことだ。
その音が聞こえても、人間なら誰も気にとめようとはしない。

音の発生源は、比較的シティに近い方の路地裏からだ。
カーキ色の軍服に身を包んだ3人の男が、床に蹲っている小さな黒い影を笑いながら足蹴にしている。
「軍人様から盗みを働こうたぁ、いい度胸してるぜ」
「こういう連中がいるから、いつまでたっても治安が悪いんだ。いっそこんなスラムなんざ焼きは払っちまえばいいのによぉ」
知性のかけらもない笑い声をあげながら、暴力は止まない。
「うぉっ?」
突然、ブーツで頭を押さえつけられていた小さな影が、耐えきれなくなった様に跳ね起きた。
予想していなかった勢いに、ブーツの主はよろめいた。
「てめえら、いー加減にしろよ!黙って大人しくしてりゃ、つけあがりやがって!!」
飛び出した声は、まだ声変わりの途中の、少年のもの。
血がこびりついた口元を拭いながら、彼は目の前の3人の大人を睨みつけた。
「おやおや、怖いねぇ」
「まだまだ躾が足りないんだよ」
「だな。こんなスラムじゃ、満足な教育なんて受けさせてもらうわけねえしな」

一人が嫌な笑い方をしながら、起きあがった少年に向かって拳を振り上げた。
再び来る衝撃を予想して少年が身構えたとき

「その辺にしたらどう?」

涼しげな女の声が、男たちの背後からかかった。
あまりに場違いな声に、男達ならず、目をぎゅっとつぶっていた少年も声の主に目を向けた。
pro1
いつの間にそこにいたのか、少女が一人立っていた。

すらりとした肢体を包む、薄汚れたパーカーにジーンズ。
服装だけなら、その辺のスラムの住人とあまり変わらない。
整った顔立ちや美しいプラチナブロンドが目を引くが、もっと気になるのはその雰囲気。
見つめられるだけで、辺りの気温を1、2度下げるのではと思われる、何の感情も漂わせない冷たいアイス・ブルーの瞳。

ぽかんと馬鹿みたいに口を開けていた軍人達は、相手が無防備な一人の女に過ぎないと理解すると、一斉に下卑た笑いを浮かべてにじり寄ってきた。
「へぇ、じゃあ、ねえちゃんが俺達のお相手してくれるってのかい?」
男が考える事は同じだ。
もうすっかり少年の事は忘れ、新しく現れた美しい獲物に男達は標的を定めた。
「そうね」
無表情のまま、少女は目の前にいる、好色な笑みを浮かべた男の頬に両手をかけた。
髭面の男の頬が期待で緩む。
「たとえば、こんな風に…」

ぐしゃっ

悲鳴は上がらなかった。
誰も動けなかった。
少女が手をかけていた男の頭部が、鈍い音を立てて消え失せたのだという事を理解するまで。

同僚がまき散らした血や脳漿の雨を受けて、男達は悲鳴を上げた。
「ひぎっ…?!」
パニックを起こしながら、それでも反射的に腰の銃に手をかけた時は遅かった。
目の前に美しい顔をした死神が一瞬で現れ………

スラムの住人達は誰も、路地裏で響いた男達の悲鳴なぞに興味を示すものはいなかった。
野良猫だけが、ゴミ漁りもそこそこに、暗がりへと身を翻していった。

腕に付いた血を死体の軍服で拭っている少女の姿を、傷だらけの少年は身動き一つ出来ずに眺めていた。
あんなに血を辺りにぶちまけたのに、少女の顔や服には一滴も飛び散っていない。
目の前で起こったことがすぐには信じられなかった。
3人の、クズとはいえ軍人の男3人を、素手で一瞬で…。
華奢な体と細い腕からは、想像もできない。
サイボーグやアンドロイドなら、そんな人間離れした事も可能だろうが、この少女が…?
血を拭き終えた少女は、地べたに座り込んだままの少年の方を見ようともせず、束ねた長い髪を翻した。
「おっ、おい?!」
弾かれたように少年が地面から跳ね起きた。
少女の足が止まり、面倒くさそうに再び振り向く。
冷たい視線に少年の心臓はもう一度すくみ上がったが、それでも怯まなかった。
少なくとも、彼女は自分の敵では、ない。
「…助けてくれてありがとよ」
先ほどの軍人どもに殴られたときに吹っ飛んだ愛用のベレー帽を拾い上げ、頭にかぶりながら、少年は礼を述べた。
「俺はダニエルってんだ。あんたは?」
「………」
少女は答えず、再び無言で踵を返した。

「―――いつまでついてくる気だ?」
スラムの出口が見えるところまで来たとき、初めて少女の方から声をかけてきた。
相も変わらず、何の感情もこもらない、淡々とした声で。
もしかしたら、本当に、心を持たないアンドロイドなのかもしれない。
それでも、
「こっちの勝手だろ」
ダニエルと名乗った少年は、1メートルほど置いた距離から悪びれずに答えた。
「それに俺、あんたの名前まだ聞いてないし」
少女がそれに答えるより早く、周囲の路地から複数の足音が響いた。

「え!?」

ダニエルが身構えるより早く、前後の通路は銃を構えた軍人どもに塞がれてしまった。
今度の軍人は先ほどの様な半端者ではなく、正規の訓練を積んでいる兵隊。
規則正しい動きには、一部の隙もなかった。

(やべっ!さっきの軍人殺し、もうばれちまったのか?!)

怖いもの知らずのダニエルの頭から、さすがに血の気が引いた。
軍人殺しは、銃殺されても文句など言えない。
ただでさえ、ここは無法地帯なのだから。
しかし、軍がこのスラムに注意を払うことなど滅多にありはしないのに。
こんなごみために来るとしたら、ヤクザ崩れのダメ軍人ばかりだ。
手入れと称して略奪するくらいの、かわいいものだが。
なのになぜ、ここに正規軍が?
それに、人数が多すぎる。
控えめに見積もっても、一個小隊は余裕でありそうだ。
どうみても、ただ同僚殺しの犯人逮捕のために来たのではなさそうだった。

「おいっ、何だってんだよ!」
ダニエルが一応抗議しようとしたとき、兵の輪の中から一人の士官が出てきた。
浅黒い顔の士官の視線は、ダニエルの頭上を通り越して少女の方に向けられた。
「シリア。大人しく戻れ」
その呼びかけに、ダニエルははっと少女の方を振り向いた。
シリアと呼びかけられた少女の表情はそよとも動かない。
相変わらず瞳には冷たい光がたたえられている。
「ごめんだね」
瞳と同じく冷たい声音に、前後の兵が銃の照準を一斉に合わせる金属音が重なった。
(じょーだんじゃねぇよ!マジやべえって…!!)
今にも卒倒しかねないダニエルの耳に、ぼそりと小さな声が流れ込んできた。

「あたしが引きつけておくから…その間に逃げろ」

「え?」

聞き直す間もなかった。
彼が瞬きした一瞬の間に、無謀にも少女は兵士の輪の中に突っ込んでいった。
勿論、両手は素手のままだ。
「ぐはっ!」
最前列にいた兵士が、銃の引き金を引くより早く腹を殴られて数メートルも吹っ飛び、その後ろの兵もそれに引きずられてなぎ倒される。
鍛えられた軍人、それでもたかが女子供と甘く見ていたのか、銃の出番もなく、戦いは乱闘戦になった。
接近戦では銃は使えない。
軍用ナイフを構えようとしても、その前にスニーカーを履いた足がそれをはじき飛ばす。
狭い路地では、人数の多さが逆に災いする。
素早い細身の影に翻弄され、しまいには味方に斬り付けてしまう有様だった。
その混乱の中を、ダニエルは器用にすり抜けていった。
このまま逃げても良かった。
先ほどの少女の忠告通りに。

…振り返ったダニエルの視界に、カーキ色の山が蠢いていた。
たかが一人の少女に、いい年をした軍人共が必死で群がっている。
さすがに常人離れした少女でも、このまま放っておけば………
そのダニエルの目の前に、堅い音を立てて銃が転がってきた。
反射的にそれを追おうとした兵士の顔面に蹴りを入れ、つかみ取る。
「くそったれ!!」
考えるよりも先に体が動いた。
両手で構え、撃った。
夢中で引き金を引き続ける。
銃を撃つのは初めてじゃない。
彼も、暴力と騙し合いの風が吹き荒れるこの陰惨なスラムで暮らしてきたのだ。
眼中になかった子供からの背後からの攻撃に、兵士達は完璧に不意を付かれた。
少女に組み付いていた数人が、血を吹き出して倒れ込む。
だが、もっと驚いたのは、助けられた少女の方だった。
(坊や…?!)
押し寄せる兵士達にも冷静さを崩さなかった彼女の表情が、初めて驚愕に歪んだ。
「こ、このクソガキ!!」
足を撃たれた兵の一人が、まだ銃を構えたままのダニエルに銃口を向けた。
ダニエルがそれに気づくと同時に、耳をつんざくような銃声が轟いた。

「………!」

全てが、スローモーションに見えた。

銃を構えたまま固まっているダニエルの前を、黒い影が覆った。
呆然としたままの顔の上を、長い髪がくすぐる。
銃声と同時に、目の前の細い影がのけぞる。

少女が、目の前にいた。
白かったパーカーを、自らの血で朱に染めて。
「逃げろと…言っただろう」
呟いた口元から、一筋の赤い血が滴り落ちた。

悲鳴が上がった。
被害者ではなく、加害者の口から。

「馬鹿者!!誰が実弾を使えと言った!!」
先程シリアに呼びかけていた指揮官が、狙撃者の頬を躊躇いもなく拳で殴った。
「も、申し訳ありません!」
「殺してしまっては、何のために…!」
……その後の叱咤を、部下は聞くことが出来なかった。
代わりに他の者達が聞いたのは、肉と血が弾ける鈍い音。
その影すら捕らえる事の叶わない、翻るプラチナの髪を垣間見ただけだった。

そして…気づいた時には、重傷を負ったはずの少女と、不逞にも軍人に向かって発砲した少年の姿は、消え去っていた。
薄汚れた地面に大量の血痕と、数体の死体と怪我人と、惚けたままの男共を残して。

埃っぽい風が、迷路の如く入り組んだビル街の中を吹き抜けていった。
とうの昔に放置されたまま、いつ崩れてもおかしくないボロビルの中の一つに、少女と少年は並んで階段に腰掛けていた。
どうやってここまで来たのか、当のダニエルにもうまく説明できない。
気が付けば、重傷の身である少女の小脇に軽々と抱えられていたから。
走り続ける少女に乞われるままに道案内をして、ようやくこの安全地帯で一息を付いた。

安堵のため息をついてから、ダニエルははっと気づき、傍らで涼しげな表情を崩さない少女に向き直った。
「お、おいっ!そういえば、う、撃たれた傷…!!」
自分をかばって銃撃を受けた体からは、確かに赤い血が迸っていた。
人工血液じゃない。
彼女は、れっきとした、生身の人間だ…!!
小柄とはいえ人間一人抱えて、おまけに撃たれた体で敵を振り切るなんて、並の人間業じゃない。
「傷…?」
少女は最初不思議な表情をしたが、すぐに「ああ」と頷いた。
思い出したように血染めのパーカーを脱ぐと、どきりとするくらい細い肩が露わになった。
が、ダニエルの視線は、その腹部に釘付けになった。
赤いタンクトップでは、血の汚れはほとんど分からない。
だが、どうみてもそれはもう完全に乾ききっていた。
そして、確かに銃弾が貫通したはずの傷は……
「もう、治ってる」
他人事のように、少女は呟いた。

「あたしの名前は、シリア」
そう、少女は彼に対して名乗った。
先ほどの軍人共との会話でバレたからもういいと思ったのか、それとも一応先ほど助けてもらった礼のつもりだったのか。
そして、ダニエルに請われるまま、ぽつぽつと重い口を開いて自らの事を語ってくれた。
「強化人間の試作品第一号だ」
軍機密の極秘事項のひとつ。人間を越える人間の創世。
通常の人間の数倍から数十倍の治癒力、反射神経その他諸々、肉体・神経系統の増強された改造人間。
戦争に必要なら、生身よりも、機械人間の方が余程優秀だろう。
アンドロイドや、全身サイボーグ化人間も珍しくなくなっているこの時代に、何故生身の人間にこだわったプロジェクトが進められたのか。
そんな事は、シリアには分からなかった。
分かっていたのは、束縛と駆り出される戦闘と繰り返される実験とに嫌気がさしたこと。
そして―――何かを思い出すため。

「何かって?」
「…それが分からないから、困っている」

語り続けるその眼には、出会ったときとは全く異なる、感情の色がはっきりと見て取れた。
哀しく淀んだ、底なし沼の色―――見ている方が切なくなるような、そんな眼だった。

軍にいた頃は、『シリア』の自我はなかった。洗脳措置は万全だったのだから。
それが、あるきっかけでそれが破れ、彼女は自分を取り戻した。
そして、心に引っかかっている、忘れてはいけなかったはずの何かを思い出すために、行動を起こしたのだ。

脱走時の話に及んだとき、ダニエルが何故だか一瞬だけ複雑な表情を浮かべたことに、黄昏色の空を眺めていたシリアは気づかなかった。

シリアの語りが終わり、そのまま二人はしばらく動かなかった。
気まずい沈黙ではない、居心地の良い休息の時間を。
が、それも長いことではなかった。

「…おしゃべりが過ぎたな。ここでお別れだ」
そう言って、シリアは血で変色したパーカーを小脇に抱え、階段から立ち上がった。
「ど、どこいくんだよ?」
慌てるダニエルとは対照的に、シリアの声は再び、氷の冷たさをまとっていた。
「さあ…ね」
「どうせ、すぐには行く当てもないんだろ?だったら…」
感情のままにまくし立てる少年の言葉に、ふっと少女の瞳が揺れた。

不意に彼女は、立ち上がった少年の目の高さに併せて腰をかがめた。
(?!)
至近距離から、しかも真正面から見つめられて、ダニエルの心臓は、どくんと一挙に跳ね上がった。
シリアの青い瞳は静かに、真っ赤な少年の顔を映している。

そして

「さよなら。ダニエル」

彼が名乗ってから、初めて名前を呼んだ。
同時に、額に柔らかな唇の感触。
それが、短い刻を一緒に戦ってくれた少年への最大の礼、そして別れの言葉だった。

「……あ…?」
立ち去る細い影を、額に手を当てたまま見送っていた少年の目に、ぽろりと涙が一粒浮かんで、落ちた。

「―――いつまでついてくる気だ?」
振り向くことなく放たれた声に、ダニエルは息を潜めていたビルの影でびくっと飛び上がった。
観念したのか、悪びれもせずにこにこと笑いながら、シリアの側に歩み寄って来る。
「やー、偶然だなぁ。シリアもこっち来てたんだ」
悪戯を見つけられた悪ガキの様な態度の少年に、どこで手に入れたのか真新しいパーカーを羽織った少女は、心の底から呆れた視線を突き刺した。
「あたしはお尋ね者だと言っただろう!あんたは死にたいのか?!」
シリアを知っている者が、今の彼女を見たら、恐らく開いた口が塞がらないだろう。
彼女が、こんなに感情を露わにして他人を叱りつける事など、前代未聞と言っても良かったのだ。
そう、洗脳が取れても感情を表に出すことの無かった彼女が、今や明らかに「怒り」と「困惑」の表情を出している。
会って間もない少年なぞに、なぜこんなに感情が出てしまうのか。
彼女自身も、分からなかったし、意識もしていない。
ちなみに、相手のダニエルは、そんなシリアの変化に気づいているのかいないのか、調子を崩さず、一歩も引かなかった。
「るせー!たまたま俺の歩く先に、シリアがいるだけだよっ!!」
恐れを知らない少年の言葉に、シリアは少しだけ自分を取り戻したらしい。
アイスブルーの瞳に冷笑の色を浮かべて、彼女は彼に尋ねた。
「ふーん…。なら、坊やはどこに行こうとしてるんだい?」
「決まってるじゃないか」
氷点下の声を、少年はたじろぐどころか、待ってましたとばかりに元気良く答えた。

「シリアの行くところだよ」

「…………」
恥ずかしげも無く真っ正面からぶつけられた言葉に、軍時代は「氷の殺戮機械」とまで称された少女は動けなくなった。
まさに、茫然自失。
その心情を表すように、右肩からずるっとパーカーの袖が滑り落ちた。

そして

「…本当に、仕方のない坊やだな」

ダニエルは、ベレー帽を握りしめたまま動けなくなった。
(シリア…初めて笑った……)

同時に、シリアからもらった額の感触を思い出してしまい、ぼっと一気に頭に血が上った。
耳まで真っ赤になって固まっていたのも束の間、はっと気が付いた。
「ぼ、坊やじゃねーって言っただろ!!」
「なら、『お子さま』の方がいいかな?」
「それなら、シリアは『おばさん』だよ!!」

出会ってからまだ一日も経っていない、奇妙な縁で結ばれた少年と少女は、端から聞けば漫才の様な会話を続けながら、夕闇迫るスラムの奥へと消えていった。

始まりにか、それとも、終わりへ向かってか――