満月だ。
ケイはいつも以上に身軽な体で、いつも待ち伏せしている樹の上に昇った。
魔力が体の隅々まで行き渡って、何とも心地良い。
しばらくはのんびりと月光を浴びていたが、時間が経つに連れて緑の瞳が訝しげな色を浮かべた。

「今夜は遅いわね…」
もう何十回と無くカイルと対面してきたが、もうとっくに現れてる頃なのに、未だに彼は姿を見せない。

アイツも不思議なヤツだよね
ケイの頭の中に、黒づくめの吸血鬼の姿が浮かんだ。
吸血鬼を実際に見たのは初めてだった。
初対面の時はご主人様を守ることだけしか頭になくて無我夢中で飛びかかっちゃったけど、本来ならあたしがかなうはずもない、存在。
だけど、カイルというあのバンパイアは、何となく親しみが持てた。
坊ちゃんぽいって言うのか、なんていうのか…
いやいや、敵なんだから、馴れ合っちゃイケナイんだけどさ。

月が、そろそろ太陽に空の支配権を譲ろうとしている。
彼はまだ現れない。
あともう少ししたら、夜が明けてしまう。
そう考えると、何となく寂しくなってしまった。
ケイの尻尾が、元気なく垂れ下がる。
ご主人様を狙うヤツが居なくなったんだから、喜んでいいはず、なのに…
くるくる動く、緑玉の瞳に珍しく暗い色を浮かべて、
「もう諦めたのかな…?」
呟いた直後、

「そういう訳ではないが…」

いきなりケイの真後ろで答えが囁かれて、ケイの全身がびくぅっと逆立った。
振り向くより早く、今まで腰掛けていた樹の枝を蹴って地面に舞い降りる。
「だ、誰だ?!」
枝の上に、黒衣の姿があった。
人間ならば、その体格を細い枝が支えられる訳がない。
カイルと同じ体格、服装。だけど…
「カイルじゃない!!」
誰何しながらも、ケイの心臓は破裂寸前だった。
噴き出た冷たい汗が額を伝う。
(全く、気配がしなかった…!)
獣である自分に気配を悟らせなかった。
風の動きも、匂いすら感じなかった。
カイルの芸当とは思えない。
ケイの鋭い視線を受けながら、相手は悠々と木の上から草地に音もなく降り立った。
カイルと同じ、漆黒のコートが夜風に翻る。
だが、カイルと違う黄金の冠のような金髪が闇の中で輝いていた。
そして、寒気がするほどの美しい顔立ち。
髪と同じ黄金色の瞳がケイを見た。
それには、何の感情すら浮かんでないようにケイには見えた。
が、相手はうっすらと口元に笑みを浮かべ、口を開いた。

「ふ…ん。お前が弟のお相手か」
「弟……?」
不信の眼差しが、驚きへと変貌するのは一瞬だった。
じゃ、コイツ、カイルの兄貴…!?
イコール吸血鬼!!
カイルに兄弟が居ること自体が驚きだったが、その兄とやらが出張ってきた方がもっと驚いた。

コイツも、ご主人様を狙ってる…!

ご主人様の近辺に現れる奴は、みんな敵だ。
それが、吸血鬼なら、尚更危険だ。
狙うのは、ご主人様の血に相違ない!!

非常に偏った思いこみなのだが、ケイはその事を気付いていない。
ただ、ひたすら『ご主人様』を守りたい一心だ。

しかし、何故今回は兄貴だけが登場したんだろう?
「カイルはどうしたんだ?」
ケイの疑問に、ラルクは何故か妙に子供っぽい笑い方をした。
くっくっと喉の奥で笑いをこらえながら、

「ああ…奴なら、寝坊してまだ棺桶の中じゃないかな?」
と答える口の中に、白い牙が見え隠れする。
間違いない。
コイツも、正真正銘の吸血鬼だ!
ケイの中で、恐怖よりも敵愾心の炎が燃え上がる。
「で、今度はお兄さんの登場ってワケ?」
ケイの瞳が、ラルクを焼き殺さんばかりに睨み付けた。
ラルクはそんなケイを恐れるどころか興味深そうに見ている。
新しいおもちゃを手に入れた子供のように。

「誰が来ようと、ご主人様には手を出させない!」

両の手から鋭く長い爪を飛び出させて、ラルクに飛びかかろうとした時、空気が動いた。
ざわっと夜風が凪いだ。
ラルクは微動だにしていない。
ただ、今まで押さえていた、ラルクが解放した鬼気だけで、ケイの動きは封じられた。
ケイの全身の肌が一気に粟立って、まるで石にされたように身動きできなくなる。

怖い…!

カイルとの時には持たなかった感情が、ケイの神経を縛った。

恐怖

畏怖

これが、吸血鬼……!

一瞬にして戦意をそがれたケイは、尻尾を逆立ててふーっと唸ることしか出来なくなってしまった。

全身にのしかかる、凄まじい圧迫感。

動けば、殺される……

少しも動かずケイの動きを封じたラルクは、ふっと鬼気を緩めた。
途端に周囲の重圧感が消え、ケイはその場にぺたんと座り込んでしまった。

「安心しろ。今夜は『カイルのお相手』を見に来ただけだ」
先程のように、すこし悪戯っけのある笑いを浮かべつつ、ラルクは言った。
そうすると、今までの気配が嘘のように、妙に人なつっこい雰囲気を醸し出す。
変なヤツだと思う余裕は、今のケイにはなかった。

「それに…」
その後の言葉は、彼の心の中でのみ呟かれた。

(『ご主人様』とやらは、俺の好みじゃない…)

ここに来る前、カイルに訊いた家を探し当て、『ご主人様』の姿を拝んできたのだ。
ケイはカイルを待ち受けるため出払っており、家の鍵など彼には意味をなさない。
まんまと寝室に潜入はしたものの、『ご主人様』の寝顔を見ただけで一気に食欲が失せた。
(猫の美的感覚はわからんものだな…)

その頃…カイルはどうしていたか?
ラルクがケイに告げた通り、棺桶の中にいた。
寝過ごしたわけではない。
館の地下室に、カイルの棺は置いてある。
彼用に、きちんとした寝室もあるのだが、何となく棺桶の方が落ち着くという事で彼はいつもここで昼の時を過ごしていた。
そして今、地下室からは、ひっきりなしの怒声と、何かを叩く音が響いている。
突然、何かがちぎれ飛ぶ金属音がした。
そして、重い棺の蓋が勢い良く開く音。
棺から飛び出したのは、怒りで顔を朱に染めているカイルだった。
棺の周囲には、弾き飛んだ鎖が散乱している。
今朝、棺に入って眠っている間に、何者かに棺をぐるぐると幾重にも太い鎖でがんじがらめにされたのだ。
何者?
犯人は、一人しかいないではないか!
「あンのクソ兄貴!!!」
血相を変えて、彼は地上に続く階段を駆け上がっていった。
ラルクの目的は…ケイ?!
味の好みにうるさい兄貴の事だから、化け猫などに食指が動くとは思えないが…。
カイルの脳裏に、血塗れのケイの姿が浮かんで、消えた。

未だに恐怖の残滓に縛られたまま硬直しているケイを、ラルクは意外と感情のこもった目で一別すると、コートを翻した。
そして、
「あまり、カイルをいじめるなよ」
皮肉な、それでいてどこか憎めない笑い声を残して、彼の姿は一瞬でケイの目の前から煙のように消え去った。
後には、座り込んだままのケイだけが取り残された。
どれくらいそうしていたのだろう。
その時間は短かったのだろうけど、ケイには一日以上にも感じられた。
そのケイの前に、黒い霧が突然流れてきた。

「ケイ!」

瞬く間にその霧は人の形を取り、ケイの名前を呼んだ。
「カイル…!」
虚ろだったケイの瞳に、驚きと、もう一つ別の感情が輝いた。
が、ケイが立ち上がろうとする前に、カイルに凄い力で引き起こされた。
血相を変えて、ケイの肩を揺さぶった。
「大丈夫か?!兄貴に何にもされてないのか?!会ったんだろう?!」
「へ…?う、うん…」
カイルの剣幕に押されて、ケイはいつもの元気も何処へやら、昼寝の途中を起こされて寝ぼけているような猫の様にただ頷くことしかできなかった。
ケイの全身を見て、怪我も咬跡もないことを確認すると、カイルは安堵のため息を吐いた。
興奮のあまり血走っていた目も、今は穏やかな茶色がかった瞳に戻っている。
「良かった…。兄貴は容赦ないときは凄まじく冷酷だから」
ほのぼの和んだ後、カイルははたと気付いた。
(何やってんだ、俺は…)
「と、とりあえず、もう夜明けだ。今日はお互い引き下がろう」
慌てて言い捨てると、再び霧状になって姿を消してしまった。
またもやケイは、人間で言うなら狐に化かされた感じで、そこに佇んでいた。
その側の木の陰で影が揺らめいた。
「……なるほど」
ケイの耳にすら届かないほどの影の呟きは、微かな笑いを含んでいた。
東の空が明るくなって、猫の姿に戻り村に向かうケイの背中を見つめた後、影も徐々にその姿を溶け込ませ、後には誰もいなくなった。

 

 
 
 
 

いつも通りケイの姿は、陽の光が届くテラスの端にあった。
おやつのミルクをお腹一杯に飲み終わり、目を細めて、満足げにまどろんでいた。

「ケイを捨てる?!」

いつも優しく穏やかなご主人様らしくない、ヒステリックな声がいきなり飛び込んできて、ケイの両の耳がピンと立った。
開いた窓から室内に目をやると、ご主人様と、高そうな背広をきっちりと着こなした若い男が言い争っていた。
「分かってくれ。僕は猫が嫌いなんだ!」
「で…でも、ケイはずっと育ててきたのよ!」

ケイは身を起こしたものの、そこから動けず二人のやりとりを聞いていた。
緑の瞳には動揺の色が隠せない。

「君は、猫と婚約者の僕と、どちらが大切なんだ?!」
議論に業を煮やしたのか、男が最後の選択を迫った。
ケイも、ご主人様の方に必死の眼差しを向けたが、ご主人様は向かい合う男の顔しか見ていない。
重い沈黙の後、
「………分かったわ」
ご主人様の顔が俯いた。
「ケイは明日、森に置いてくる」
ケイの背中が、まるで氷の固まりが滑り落ちたように冷え切った。
その後の二人の甘い会話は、ケイの耳には入ってこなかった。
その言葉だけが、頭の中をいつまでも早鐘のように鳴っていた。

満天の星空と満月が、互いに競い合うように光り輝いていた。
その光を背中に受けつつ、ケイは顔を俯けたまま森へ向かって歩いていた。
普段の軽やかな足取りは影もなく、鉛でもくくりつけられているかようにその歩みは重そうだった。
その姿は、無力な猫のまま。

村から見えなくなったところまで歩いたところで、臥せたままのケイの目に、磨き込まれた黒い靴が写った。
「どうした?ケイ。今日は猫のままで」
靴の持ち主はいつも通りコートをまとい、ケイを見下ろしていた。
その顔は、不敵な笑いと、微かな戸惑いを含んでいた。
夜会うときに、猫の姿のままのケイは初めて見たからだ。
そして、いつものような弾ける元気が感じられなかったから。
ケイはちょっとだけ顔を上げてカイルを見たが、すぐ目を伏せて、その脇をすり抜けて行ってしまった。
「……?」
さすがのカイルも、そんなケイの様子に不安を抱いた。
のろのろと歩み去ろうとするケイの背に、指先を向けた。
「フギャアアアアアっ!!」
蒼白い炎がケイの小さな体を包み込んだ!
魔法で創り出されたその炎は一瞬で消えたが、ケイの毛皮は所々軽く焼けこげてしまった。

「何すんのよ!!」
激怒して振り向いたケイの姿は、瞬く間にキャットウーマンへと変わり、カイルに飛びかかってきた。

「…で、結局どうしたんだよ」
カイルはいつも通り全身に引っ掻き傷のオンパレードを受けた後、気になっていた疑問を投げかけた。
まだ怒りの残滓が残って興奮していたケイの瞳が、またもさっと暗い色に染められる。
元気に輝いていた顔には似合わない憂いの表情を浮かべ、またもカイルに背を向けた。
「お…おい?」
無言で歩み去ろうとするケイの背中に、カイルの慌てた声が当たったが、ケイの歩みは止まらなかった。
「お前の主人が襲われてもいいのか?!」
その言葉に、ぴくんとケイの肩が揺れた。
歩みは止まったものの、彫像のように動かなくなってしまった。
そして、ぽつりと一言。
「いいよ…。もう、どうだって……」

鈍いカイルだって、ケイに何かあったことくらいは確信できた。
「ケイ!?」
腕を伸ばして、細い肩を掴んだ。
「離せ!」
意外なほど強い力で振り払おうとしたが、男の、しかも吸血鬼の力にかなうわけがない。
強引に振り向かせたケイの大きな瞳からは、きらきらしたものがこぼれ落ちた。
それは滑らかな頬を伝って、カイルの手に弾けた。

「嫌いだ…人間なんて」

顔を俯けたまま、喉の奥から絞り出す別人のようなケイの声。

「昔…。雨が冷たくて、野良猫だったあたしはお腹も減って、寒くて…死にかけてた。そんなあたしを拾ってくれた」

カイルが掴んだままの肩が微かに震えているが、寒さのせいではあるまい。

「人間なんて嫌いだったけど、ご主人様だけは別だと思ってた…」

暖かい部屋 暖かい食事 暖かい言葉 暖かい温もり

全てはまやかし。

全ては一時の気まぐれに過ぎなかった。

「人間なんてみんな同じね。要らなくなったら、簡単に捨てるのね…」

それっきり、二人は長い間同じ姿勢のまま動かなかった。

「カイルぅ。お茶入れたよ~♪」
明るい声と共に、可愛いエプロンを付けたケイがいそいそと居間にやってきた。
手には、ティーカップが二つ乗ったお盆。
凝った装飾を施してあるカップからは、湯気と共に異様な臭気が漂っていた。
「…もしかして、これ、マタタビ入り?」
受け取ったカイルの引きつった笑いに気付かないのか、ケイは無邪気にコクコクと頷いた。
顔をしかめつつ一口すすったラルクが即行でコメントした。
「不味い」
その言葉で、ケイはカイルの胸で泣き出した。
「え~ん。お義兄様が苛める~」
「はいはい。よしよし」
猫じゃらしで慰めてるカイルの方をもはや呆れて見ようともせず、ラルクはソファの背に寄りかかりながら伸びをした。

(猫と吸血鬼がこうなるとは…ねぇ)
確かに両方とも夜行性だから問題はないのだろうが。

ラルクは胸に手を当てた。
もう傷の痛みも消えた。
いつまでもここでこの二人と遊んでいるのも馬鹿らしくなってきた事だし、そろそろ潮時だろう。

「これにて今宵の狂騒曲も終演なり…と」

最後に、ラルクが一つだけ気になることがあった。

(…猫と吸血鬼か。子供が楽しみだな)

扉の入り口で振り返り、まだじゃれあっている二人を眺めやる。

(猫にコウモリの翼が生えたようなのが生まれるのかも、な)

そして、ドアは音もなく静かに閉じた。

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