「いたーーーっ!カイルぅーーーーー♪」

「ぶわっ!」
「?!」
突然横から飛び出してきた小さな影に顔面へ飛びつかれ、思わずその場に尻餅をついたカイルの頭上を、すかっと見事に白刃が空振りする。
「もー、遅いよ!あたしずっと待ってたんだよ!!寂しかったー!」
「ちょっ、け、ケイ!まっ…!」
顔中をぺろぺろと小さな舌で舐められ、カイルの叫びも言葉にならない。
そして、スランはといえば―――
剣を片手に、茫然自失。
今までの戦意はどこへやら、小さな猫に押し倒されている吸血鬼の姿を、ただただ眺めやるしかなかった。
「…おい!」
いい加減我に返り、スランは怒声と共に剣を大振りした。
「うん?」
応えたのは、対戦相手ではなく、それを押し倒した相手。
スランの声と空を切り裂いたその音と、どちらにより反応したのかは分らないが、ようやく猫がスランの方へ首を向けた。
と思ったら、再びカイルの顔へ鼻を寄せ、

「なぁに、こいつ?カイルの友達?」

片親の血はよほど純で強大な力を持つ吸血鬼だったのか、そしてそちらの血をより濃く受け継いだのか、スランにも獣の言葉は分る。
…分らなければ良かった。今は。
ハンターの中でも最高位と讃えられる吸血鬼ハンターとして、過去、幾十もの吸血鬼を滅ぼしてきた。
貴族として人間を支配する身分の者ですら、だ。
ハンターの中でも傑出した能力と戦歴を持つと讃えられ、自負してもいた。
そのスランが、今や一気に戦意を失っていた。
情けなさの余り。
この場合、情けないと思ったのは、目の前で猫に押し倒されている吸血鬼についてなのか、それとも、そいつに本気で伐ちかかっていた自分なのか、スラン自身にも分らなかった。
「いいから離れてろって、危ないから!こいつはハンターだ」
ようやく、顔面にしがみつく猫をひっぺがし、カイルは身体を起こした。
その目は、スランと同じく鬼気を失った夜の色に戻っている。
今の痴態を恥じてか、とてもばつの悪そうな表情で、スランに真っ向から顔を向けようともしない。
だが、
「ハンター?!」
何となく白けた男二人を尻目にケイだけが声を荒げ、
「っ?!」
夜の闇を、閃光が貫いた。
目を灼く光に慌てて体勢を整えたスランの前に、またもや驚愕すべき光景が現われた。
「なに…?!」
たった今、吸血鬼の黒い足下で低く唸る声を上げていたのは、亜麻色の毛並みをした猫だった。
それなのに、光が収まった後に自分をキッと睨み付けているのは ――

「お前!カイルに手を出す気なら、先にあたしが相手だよ!!」

緑の瞳を闘志で鮮やかに煌めかせた、長い亜麻色の髪を夜風にたなびかせる少女。
「カイルって言ったな。こいつは何なんだ?」
自分を無視され、しかも「こいつ」呼ばわりされて、ケイはむっと顔をしかめた。
カイルの方はと言えば、
(あーうー…)
と、頭を抱えたい心境と表情で、
「何だと言われても…まぁ、猫だ。俺の同居人でね」
そう答えるしか無かった。

ずべしゃっ

コミカルな擬音は、スランの片膝が地面についた音。
猫と同居する吸血鬼――
貴族がペットを飼うのは、趣味の範疇だ。
しかし、人型になる愛玩動物というのは、相当珍しいのではなかろうか。
噂には訊いた事がある。魔力を持った動物は、魔物に成り得ると。
そこまではいい。
が、吸血鬼が人間以外と交わるという例は初めて見た。
目の前のこの少女は、確かに人間の美的感覚で言えば整った容姿ではある。
だけど、猫だ。
カイルと名乗ったこの吸血鬼は、さっき、血に飢えてないと言った。
ほんのりと怖い想像がスランに浮かんだ。
…まさか、この猫の変化の血を啜っている訳じゃあないよな?
たわいない事だけれど、それでも思わず疑問はスランの口をついて出た。
「お前…ケモノ趣味?」

ばたんっ

今度は、ようやく立ち上がったと思ったカイルが顔面から草地へと突っ伏した。
「おーまーえーなー!何考えてんだ馬鹿ったれ!!」
鼻の頭を赤くしつつ、カイルは反論しようとしたが、
「それはこっちの台詞だ!猫の血を啜る吸血鬼なんて恥ずかしくないのか?!それ以前に、戦いの場に飼い猫なんか連れてくるな!!」
「お前が勝手に仕掛けて来たんだろうが!俺はこいつを迎えに来ただけだ!!だいたい、誰が誰の血を吸ってるだと?!もういっぺん言ってみやがれ、不味そうだがお前の血こそ吸ってやるぜ!」
「出来るもんならやってみろ!変態吸血鬼!!」
「お前、言うに事欠いて何て事を!少しは口の利き方に気をつけろ、半人前のダムピール!」
「あぁ!てめぇ言っちゃならん事を今言いやがったな!」

ここまで来ると、最早話し合いの余地は無い。
それがあまりに馬鹿らしい経緯であっても。

「ぶっ殺す!!」

折角変化したにも関わらず置いてきぼりのケイの目の前で男二人の怒声が重なったとほぼ同時に、

リー……ン

澄んだ鈴の音が、闇の中響いた。vh2r2

瞬時に冷静さを取り戻し、すざっと間合いを取る二人の前に、灰色の影がゆらりと闇の中から滲み出て、見る間に人の形を成した。
「カイル殿、まだかような所にいられたか。我が主人が待ちかねておられますのに」
くぐもった声は、男とも女とも取れた。
灰色のローブをまとうその人影の顔も影になってよく見えない。
「ケイを預かってくれた事には感謝するよ。デルレット卿には宜しく伝えておいてくれ。後ほど、礼の使者は出す」
カイルらしくない素っ気なさ。
数日前、共に街へ出た時、ケイは間違えて別の貴族の馬車に潜り込んでしまったのだ。
カイルのも相手のも、黒塗りの馬車だったから。
馬車が館に着き、無粋な闖入者として危うく放り出されそうになったところを、人型に変身したケイがカイルの名を出して連絡を取ってもらった次第。
馬車の持ち主は、地方領主デルレット卿。
カイルも以前兄と共に社交界に出入りした際に顔を合わせた覚えのある貴族だ。
…正直言って、あまり付き合いたい相手ではない。
ご多分に漏れず、人間を血の詰まったズタ袋としか考えない、悪い意味での「吸血貴族」だから。
けれど、
「これはこれは、貴族たる者の礼節とは思えぬお言葉。それがカイル殿の本意か?」
ローブの男の言葉に、素っ気なさを押し通そうとしたカイルの方が怯んだ。
「う……」
確かに、これはカイルの方に非がある。
自分の飼い猫を匿い、わざわざ連絡をとってくれた事には、感謝の念を払わねばなるまい。
本来ならデルレット卿の屋敷に迎えに行かねばならないところを、待ちきれなくなって抜け出してきたケイとばったり再会出来たのだとしても。
「だけど俺は……」
カイルの言葉が半ばまで紡がれたその刹那、布を引き裂く音が、夜気までをも切り裂いた。
カイルの目の前で、肩口を袈裟懸けに斬り下げられた使者が悲鳴を上げもせずにくずおれ―――
その姿は地面に膝を付く前に、中身のないただ一枚の布きれと化した。

「いつまでも無視してんじゃねぇ。化け物共が」

不機嫌を顔に書いて、スランは振り下げた剣をもう一度持ち上げた。
棒立ちになっているカイルへ向けて。
「お前っ…!」
そのカイルを守るべく飛び出そうとしているケイなど、もうスランの眼中には無い。
気付いたとしても、ただ斬り捨てるだけだ。今と同じく。
彼の敵は、ヴァンパイアのみなのだ。
それが、ふと考える顔になる。

「そういえば、ここに来る前の村で小耳に挟んだっけな。ここ一帯を治める領主殿は……」

「左様。貴殿の様な獣に悩まされる、吸血鬼でございますよ。ハンター殿」

消えた筈の者の声が再び響いても、夜の眷属達とそれを追う者にさほど驚きを与える事は出来なかった。
軽く眉を上げて振り向いたスランの前に、灰色のローブ姿が音もなく復活していた。
無惨に裂かれた肩口からは、血の一滴たりとも出る事無く。

「やれやれ。取るに足りぬ子供かと思っておりましたが…いやなかなかどうして面白い」

語尾がよく聞き取れなかったのは、声もなく笑っているらしかった。
「何がおかしい。作り物の道化が」
スランは剣の切っ先を再びローブの使者へと向けた。
先程はただ斬り下ろしただけ。
だが、魔力を込めての聖剣の一太刀ならば、いくら吸血鬼の魔力を注がれた依代といえど今度こそ抹殺出来るだろう。
それに怯えたわけでもあるまいが、
「いやいや。剣をおしまい下さい。私はほうれこの通り、貴方に危害を加えるつもりなどございませぬ故」
その言葉を証明すべく、使者は両腕を広げて見せた。
「…何のつもりだ」
相手の真意を測りかねて、スランは少しだけ殺気を収めた。
見守るカイルには、もっと状況が分らない。

「スラン、と申しましたな。貴方を、カイル殿と共に我が主の城へとご招待いたしましょう」

「なに?」
「何だと?」

先程まで相争っていた、吸血鬼とダムピールの声が見事に唱和する。
「主は今、興に飢えておりましてな。貴方は恐れ知らずにも吸血鬼を付け狙うハンターでございましょう?そして我が主も吸血鬼。一夜の退屈しのぎにはなりましょうぞ」
敬うように見せかけつつ、下賤の身と嘲笑う使者の言葉に、けれどスランはさして気を悪くはしなかった。
昔から慣れていた扱いだ。
人間でもなく、吸血鬼でもない。貴族ですらない、父が誰かも知らぬ庶子でしかない身の上だ。

「…ふん、いいだろう。そいつを連れて行かれるくらいなら、ご領主様共々引導を渡してやるよ」
そう不敵に笑い、スランは剣を鞘へと収めた。
それで闘志までもが収まるはずはないが。
「……え?ちょっと待て、俺はデルレットのとこへ行くなんて…」
あまりの成り行きに付いていけず一人混乱していたカイルが我に返った時、目の前では、いつの間に用意されたのか立派な黒塗りの馬車に、こちらを睨み付けたままのスランが恐れもなく乗り込むところだった。
呆気にとられる黒い貴族の足下では、どうしていいか分からず本来の姿に戻った飼い猫が、ニャーと心細げな泣き声をあげていた…。