廊下に人の気配はない。
ぽつぽつと思い出したように置かれた明かりが照らす薄暗い通路を、微かな風の流れを追って二人は歩いていた。
その先に玄関があるはずだ。
案の定、角を曲がった先には見覚えのあるエントランスが見える。
ようやくスタート地点へと戻ってきたわけだ。
「全く、ひでー目に遭った」
「ああ。あのクソ城主、どうしてくれよう」
いつの間に仲良くなったのか、意気投合ともとれる台詞をお互い吐きながら、今や共通の敵となった人物を血眼で探した。
さて、城主は何処にいる――
「…………」
「何だ？」
隣に並んだカイルの視線を感じ、スランは足を止めた。
「……何でもない」
藪睨みな視線を向けておきながら、ぶっきらぼうにそれだけ言ってカイルはぷいとスランから視線を外した。
「何だよおい、人をガンつけしておいて」
「なんでもないって言ってるだろーが！いちいち剣を振り回すのやめろっつーの」
左の指二本で頭上ギリギリまで迫った剣を受け止めながら、カイルはモゴモゴと呟いた。
「……って思っただけだよ」
初めて会った時から、どこかで見た様な、誰かに似ていると思ったんだ、このダムピールを。
だけど、まさかな。
そんな偶然がそうそうあるわけがないし、第一こいつも何も言わないし、俺の気のせいだ。
こんな事を思ったなんて知ったら、またもこの短気なハンターがぶち切れるだろうってくらいは想像にかたくない。
ああもういやだ。早く館に帰りてぇ…。
「ひっ…！」
一発触発状態の二人がエントランスに践み入った途端、か細い悲鳴がすぐ近くの暗がりから挙がった。
「誰だ！」
二人の視界の端に、廊下の奥へ逃げ込もうとする小さな影を捉えた。
先に動いたのはスランだ。獲物を捕まえる獣の様に反射的に追い、そいつの肩を掴んだ。
「ひいっ！！いやあああ！」
「女…？！」
追いついたカイルも驚いた。
隠れていたのは人間の少女だ。
「ご、ごめんなさいごめんなさい！殺さないで！！ちょっと部屋を出ただけなんです！すぐに戻りますから！だからお願い！！」
スランの手を振り解こうと滅茶苦茶に暴れ回る少女を、力任せに無理矢理押さえつけた。
「おい、落ち着けよ！俺は敵じゃない、吸血鬼ハンターだ！！」
「え…？」
その言葉でようやく少女は腕を振り回すのを止めた。
「吸血鬼…ハンター…？」
ようやくスランも手をゆるめ、少女の顔を見る事が出来た。
肩までの短い髪は涙で濡れた顔に張り付いて酷い有様ではあるが、くりっとした青い目が可愛らしい。
少し力を入れればぽきりと折れてしまいそうなか細い腕から、スランは慌てて手を放した。
「そうだ。俺はスラン。この館の主を退治しに来たんだ」
「ほ、本当ですか！」
青ざめていた表情が、ぱっと花が開く様に輝いた。
「助かったのね！ああ…神様！感謝します！！」
満面の笑みを浮かべ、ひしと少女は抱きついた。
吸血鬼を滅しにきた者の脇をすり抜け、黒衣の吸血鬼の胸元へと。
「…………」
全く予想していなかった展開に、スランも、しがみつかれたカイルも、ぽかんと口を開けたまま反応出来なかった。
「わ、わたしはリズと言います」
そんな男共の様子に気づきもせず、震える声で少女は自分の事をまくしたてた。
「村の掟で、御領主様に『奉公』する為に連れて来られました…でも、でも、こわい！わたし…」
「おい、そいつは吸血鬼だぞ！」
先に石化状態の呪縛を解いたのは、またしてもスランだった。
少女へ湧いた僅かな憐憫の情が一気に理不尽な展開の怒りへと変わったせいだろうか。
「何を言っているの？ご領主様ならついさっき奥へと行かれたわ」
自分の台詞を遮られて、リズと名乗った少女がスランを睨む。
「そうじゃなくて、そいつも吸血鬼なんだよ！領主の仲間だ！！」
「えっ？！」
弾かれた様に顔をあげ、少女は自分が抱きついていた相手をしげしげと眺めた。
照れているのか困惑しているのか複雑な表情をした、黒髪の青年。
薄明かりの中にあっても、分かる。
すっと伸びた鼻梁、凛々しい中にも穏やかさを秘めた黒い瞳、そして隠せようもない高貴な雰囲気。
村にも ―― いいえそれどころかこんな人が世界にいるという事を、リズは初めて知った。
強張っていた頬がほわっと紅色に染まり、キッと鋭い視線を再びスランへと転じる。
「失礼な事言わないで！吸血鬼がこんな優しそうなわけないじゃない！！あなたの方が余程野蛮じゃないの！」
吸血鬼だという事を否定されたカイルと、ハンターだという事を野蛮という形で表現されたスランの、ど ちらがより傷ついたかは定かではない。
そんな男達へ、リズの追撃は止まらない。
「この方を吸血鬼呼ばわりするなら、どうしてハンターだって言うあなたと一緒にいるの？いくら世間知らずの田舎娘だからってわたしは騙されないわよ」
「「好きで一緒にいるわけじゃねぇ！」」
気持ちいいほどに男二人の声が重なった。
そして今にも火花が散ってもおかしくないほどの激しい視線をばちばちとリズの頭越しにぶつけ合う。。
もう幾度見ただろう、苦虫を一万匹ほどまとめて噛み潰して飲み下した様な、苦々しいお互いのこの面を。
「…話せば長くなるんだ。生憎話してる時間はない。城主は俺が滅ぼすから、お前はもう村へ戻れ」
「なんですって…！」
きょとんとしていたリズの顔が、スランの言葉を聞いてみるみる青ざめた。
それは、吸血鬼たる城主をたった一人で滅ぼすと言う行為についてか、それとも獣や魔物が跳梁跋扈するこの夜の森をたった一人で行けと言われたからなのか。
その両方かもしれない。
だが、彼女がすがりつく青年はやはり味方だった。
「ちょっと待てよ、この子をこの夜道に一人で放り出すわけに行かないだろ。送っていってやれよ、人間の味方のハンター」
「ふん、俺は吸血鬼を狩る者であって人間の味方ってわけじゃない。ならお前が行けよ、吸わない自信があるならな」
「随分冷たい言い方だな。半分は人間だろお前」
「言うな！！もう半分のお陰で俺がどれだけ苦労したか…！！」
二人の会話について行けず目をぱちくりさせていたリズだが、その間もカイルの傍から離れようとしない。
「送って下さるなら、貴方の方が嬉しいです。ええと…」
「え、ああ俺はカイル」
「はい、カイルさん。お願いします、城主は本当に恐ろしい御方、わたしと一緒に逃げましょう！どうせわたしも村に戻ったところで血を吸われた『犠牲者』と 同じ扱いを受けて殺されるだけの身。もう戻る事は出来ないのです。それなら、貴方とならわたし……」
「カイルのばかーーーーーーーーーっ！！！」
リズの語尾を打ち消す猫の絶叫と共に、カイルの顔面を痛烈な肉球の打撃が決まった。
「ぶっ！！」
仰け反たまま今夜二度目の尻餅をついたカイルの前に、亜麻色の猫がくるんっと宙返りして華麗な着地を見せた。
「急にいなくなったと思ったらこんなところで何やってるんだよ！！人間の女なんかといちゃついてるなんて！ばかばか！！ラルクに言いつけてやる！！」
「それはやめろ！！」
ケイの最後の台詞が一番効いたのか、カイルは瞬時に跳ね起きた。
目尻にうっすら涙を浮かべ両手で鼻を押さえる姿は相当情けないが。
「な、なに？この猫…」
人間のリズにとっては、怒り心頭なケイの罵声もニャーフギャーと喚く鳴き声にしか聞こえない。
が、この猫はどうやら何か怒っているらしい、くらいは分かる。
スランとしては分かりたくも無かったが。
そんな一同の頭上から、
「おお、ここにいらしたかカイル殿。お探ししましたぞ」
はっはっはっと軽やかに笑いながら、エントランスへ最後の登場人物がようやく姿を見せた。
強大な力を持つ吸血鬼にして、ここ一帯を治める地方領主デルレット公。
艶やかな赤銅色の長い髪を首の後ろで束ねたその姿は、若いのか歳を経ているのか、いまいちつかみどころがない。
が、その姿を見た瞬間、スランは迷わなかった。
ケイの登場で気が抜けた表情が狩人のそれへと一変し、
突進、跳躍、抜剣
それらを瞬時にやってのけた。
まず狙うは頭部。その動揺を突いて、返す剣で心の臓。
だが、城主の方も伊達に永く生きてはいない。首を軽く傾げただけでスランの斬撃をかわしてのけた。
「ちぃっ」
反撃を警戒して距離を取りスランは大きく舌打ちしたが、城主も自分の長い髪の幾本かが切り飛ばされた事に不機嫌を露わにした。
「野蛮な。これだからハンターなどと称する愚か者は」
その台詞だけ、カイルは勢いよく頷いて同意を示した。
背にリズを庇い、腕に抱えたケイに頬をがりがりと引っ掻かれながら。
「野蛮で結構。敵に好かれたいなんて思うヤツがいるかってんだ」
憎まれ口を叩きつつ柄を握り直す。
―― 心中を悟られるわけにいかない。
（畜生…何なんだよ、どうしたっていうんだ）
血管を破裂させんばかりに激しく踊り狂う鼓動。
戦いの興奮とは全く違う、この屋敷に入ってから感じていた息苦しいほどの違和感。
それが今やスランの身体を食い破って暴走しそうなほど激しく暴れまくりだした。
こいつの姿を見てからだ。
こんなに激しい感覚は――
「…妙だな」
だが、当の城主も白い指を顎に当てつつ何故かスランの姿を怪訝そうに眺めている。
「貴様、どこかで会ったか？」
「！」
スランは叫びそうなほどの驚愕を何とか押し殺した。
（こいつも、俺と同じ事を…！）
ずっと続いているこの血の騒ぎ。それを感じていたのは自分だけではなかった。
何故だ、何故――
「ふん、まあ良いわ。これ以上貴様と同じ空気を吸うのも汚らわしい」
物腰の一つ一つが優雅で傲慢な貴族のそれ。
じわじわと殺気が部屋中に広がっていき、デルレットの眼光も赤い血の色を帯びていく。
「ダムピールの血など吸う気も起こらぬ。千々に切り裂き、野犬の餌としてくれよう」
その声が終わるか終わらぬかの内に、スランの目の前に相手の姿があった。
「！！」
繰り出された城主の爪が咄嗟に背を反らせたスランの首筋をかすめた。
人にあるまじき反応速度。
そう、人間だったならこの若き吸血鬼ハンターの喉は裂かれエントランスを朱に染めていただろう。
己の予想をはずされた事に舌打ちしつつも、体勢を崩したスランに改めて迫ろうとした刹那、固い金属音がデルレット卿の耳に届いた。
スランの首からはずれて飛んだある物が壁に打ち付けられた衝撃で蓋を開き、柔らかな絨毯がそれを受け止めた。
「これは…？！」
その中身が目に入った瞬間、デルレットは動きを止めた。
直後に襲いかかったスランの剣を上半身を捻ってかわしたものの、ひどく動揺を見せたその視線は床に落ちたそれから離れない。
スランの母と姉の肖像入りのロケット。
吸血鬼狩りの犠牲となった二人が死んだ今となっては、唯一の形見代わりとして、首にかけていたものだ。
スランにとっては大切な、他人にとっては何の意味もないはずのそれを見て、吸血鬼は何故か驚愕の表情を露わにしていた。
「ジャネット…？！」
「なっ…！？」
今度は動揺をついて猛攻しようとしたスランが愕然とする番だった。
なぜ、どうして――
「何でお前が、母さんの名前を知ってるんだ？！」
「母さん…だと？」
デルレットは、信じられないと言いたげに若き吸血鬼ハンターを見た。
この顔立ち…
そして何より、ダムピール――
いいやまさか、そんな筈はない。
「馬鹿な…あの女が生んだのは、娘だった筈…」
あえぐ様な貴族の呻きに、死人の顔色をしたハンターが応える。
「俺には…姉さんが…」
「……！」
狩る者と駆られる者は、無言で見つめ合った。
敵意を上回る動揺が場を支配していた。
壁際に避難しながら息をのんで見守る観客も含め。
「そう…か、ジャネット……」
ゆっくりとうなだれデルレットは両手に顔を埋めた。
スランと同じ色の髪が揺れる。
「ここから逃げ出したとき…既に、もう一人……」
「なん、だと…？」
「愛していたのだ。だが、彼女は逃げた……生まれていた娘と共に…」
スランは呆然と『父親』の告白を聞いた。
「いくら探しても見つけられず、もはや諦める他無いのか…と夜毎絶望に苛まれていたが」
声の調子が徐々に変わり、ばっと上げられた顔を見た瞬間、スランは血の気がバッと音を立てて引くのを感じた。
さっきまでの違和感を一瞬で霞ませるほどの悪寒がスランの背を駆け上っていく。
「息子をここへ寄越してくれた！神など信じぬが、これぞ血の導きよ！！」
「ぎゃああああっ！！」
がっぷり抱きつかれ、どんな困難に相対してもあげた事のない絶叫がスランの口から飛び出した。
「ふざけんな！！俺はハンターだ、吸血鬼と馴れ合う気なんざこれっぽっちもねえ！！」
「うむ、今すぐというのは無理だろう。さっきはすまなかった、ゆっくり馴染んでくれればいい、ジャネットの忘れ形見、我が息子よ！！」
「いーやーだぁーーーーー！！！」
その後ろでは、いつの間にか例の灰色ローブ姿をした従者がいそいそとシャンパンと二つのグラスを用意している。
「…えーと、いいの？放っておいて」
「…いいんじゃね？」
やっぱり、と心の一部で思いつつ、それでも予想を超えたあまりの急展開に暫し呆然としつつも、カイルはケイと、先程のデルレット卿の鬼気に当てられて 気絶したリズを抱え、 父と息子の熱い抱擁に背を向けた。
リズを村に送り届け、さっさと住み慣れた屋敷へ戻ろう。
そしてゆっくり眠り、今夜の事は綺麗さっぱり忘れてしまおう。
その方がみんな幸せになれる。
そう願いつつ、カイルは腕を振り上げて馬車を喚んだ。
黄金の月が綺麗だった。
月明かりの方が魅了され、彼に光を捧げている――
そう思ってしまいそうな程に美しい男が一人、その下に佇んでいた。
雲一つ無い夜空を独り占めする月を眺めるうち、ふと彼は思い出した。
このまま西へ進めば地方領主デルレット公の館だ。
顔見知りではあるが、わざわざ尋ねるほどの義理はない。
それに――
整った眉を彼は僅かにひそめた。
そんな表情ですら彼の美しさを微塵も損なう事は無い。
「何やら騒々しそうだしな」
せっかくの素晴らしい月夜を喜劇でぶち壊したくはない。
月より尚輝く黄金の髪を夜風に揺らせ、彼は東へと夜色のコートを翻した。