厄日だ。
デルレット卿と関わる事だけでも頭が痛かったってのに、その上よりにもよって吸血鬼ハンターと道連れになるなんて。
おまけにそいつはダムピールときたもんだ。
暗示で記憶を操って穏便に忘れさせるって手も、半分とはいえ吸血鬼の血が精神の抵抗を助け使えやしないだろう。
ケイがいるし、あまり血生臭い事はしたくないんだけど…

「どうしたの?カイル。すごく難しい顔して」
ニャーと、亜麻色の猫が主人の膝の上から顔を見上げてきた。
猫好きでなくともぐっとくる愛らしい仕草だが、この殺伐とした雰囲気を和める事は出来ない。
「けっ、こんな時に飼い猫と戯れてるたぁ、随分と平和な吸血鬼だな」
「るっさいなー!何だよお前っ!!」
「こら、待てケイ!!」
そっぽを向いたまま毒づくスランに、ケイが毛を逆立てて飛びかかろうとするのを、慌ててカイルが止める。
「お前もいちいちつっかかってくんなよ。こんな狭い中でやり合うわけにいかねーだろ」
「吸血鬼と向かい合って座りながら、へらへらしてるハンターが何処の世界にいるっつーんだ」
「まぁそりゃそうだ」
わははーっとノンキに笑う貴族の姿に、スランのこめかみの血管は破裂寸前だった。
いつもとは別種の殺意が沸く。
違う。
俺がいつも倒して来たバケモノはこんなんじゃないんだ。
傲慢冷血な貴族。腐りかけの体を引きずり襲いかかってくる『犠牲者』の群れ。血に飢えた赤く虚ろな眼孔。
そんなものが、今のスランには懐かしく遠いモノに感じられた。
過去の戦歴に思いを馳せている横で、

「何でこいつカリカリしてんだろね」
「疲れてるんだろ」

そんな会話を交わされ、あっという間に認めたくない現実へと引き戻されるのだった。

殺す。
ぜっっっったい叩き切ってやる。

「お待たせ致しました。こちらが我が主、デルレット卿の館でございます」
滑る様に停車した馬車の前には、壮麗さでは都に劣るものの、一帯を治める貴族のものとしては十分に豪奢な屋敷が構えていた。
「ここ、すっごく広いんだよー。でもカイルの家の方がずっと居心地いいけど♪」
主の腕の中でゴロゴロと喉を寄せて甘えるケイが言った。
「へー」
馬車を降りたカイルもつられて館を見上げる。

(無防備にこっちに背中を晒すなーっ!)

敵の背に剣を突き立てる事に躊躇など覚えないスランだが、ここまで無防備な相手だと、気が抜け過ぎて剣を握る気も起きな い。
猫が現れるまでの戦意はどこへやら。
俺は、こんな相手にあんなクソ真面目につっかかっていったのか……

「おや?どうされました、ハンター殿。怖じ気づかれましたか?」
スランの様子を誤解した従者に嘲笑われ、ようやく気力をと奮い立たせる。
「いいや、その逆さ。早くご城主殿にお目通り願いたいと思ってね」
そう、一刻も早く、『まともな敵』に会わせてくれ ――

腹の底に響く様なきしみを立てて大きな扉が開かれると、柔らかな明かりの点された広い玄関ホールが一行を迎えた。
従者を先頭に、ケイを抱いたカイル、スランと続く。

「……?」

どくん、と脈が乱れた。
(なんだ?この感じ…)
思わず胸に手をやり、スランはホールへあと一歩と言うところで足を止めた。

「ケイ殿はこちらへ。新鮮なミルクをご用意しております」
「わーい♪」
「カイル殿は主と共に晩餐をお楽しみ下さいませ。どうぞこちらへ」

目の前で交わされる会話も耳には入らない。
胸を押される様な息苦しさと落ちつかなさを感じているのは、どうやらスランだけらしい。
(どうなってるんだ?)
周囲を見回しても、不審な物は何も見当たらない。
それ以前に、こんな感じは生まれて初めてだ。
まるでスランの身体が、血が、何かを懸命に告げようとするかの様な。

「どうした?顔色悪いぞ、大丈夫か」
ようやくカイルがスランの異変に気付き、ケイを従者に預け近寄ってきた。
吸血鬼が己を狙う敵、それもダムピールに対して『大丈夫か』も何もないものだが、

「うっせぇ!今行く」

その言葉で無理矢理足を動かした。
靴が沈みそうなほど柔らかな絨毯を踏みつける。
と、
「あっ!?」
突然に床がぽっかりと大きな口を開け、抗う間もなくスランを飲み込んだ。
「くっ!!」
咄嗟に両の爪を立てたが、苔生してぬるぬるした壁面はとても掴まれない。
真っ暗な空間が目の前で縦に流れていき、生爪が剥がれそうな激痛に思わず指先 の力を緩めてしまった。
いくらか落下の衝撃は弱まったものの、派手な水音を立てて冷たい水がスランの体を受け止めた。

「ぶはっ!」

幸い身体を打ち付けるほど浅くはなく、スランは即座に水を蹴って水面へと顔を出した。
頭上に明かりが差す小さな四角がぼんやりと見える。
あそこから落とされたのか。這い上がるにはちょっと遠いな…
そんな事を瞬時に考えるスランへ、

「ようこそ、我が屋敷へ。吸血鬼ハンター殿」

先程まで案内役だったローブ姿の従者のものとは違う声が上から響いた。
姿を見せずとも、声だけでも溢れるほどに十分な荘厳さを備えた貴族の言葉。
「ダムピールだそうだな。同族などとは決して呼ばぬが、卑しくも我らと同じ血を引くならば、そこから動けるかね?」
水路を流れる水は、浸かるスランの全身をまるで凍らせる様に強張らせていた。
「せいぜい下水を這いずり廻るがいい、道化者よ。溺れ死ななんだったら、再びまみえようぞ」
そして、嘲笑と共に天井の出口は閉ざされた。

「…おや?カイル殿?」
デルレット卿はロビーを見渡したが、招いたばかりの同族の姿は見えない。
「はて、せっかちな。もう先に行ってしまわれたか」
軽く首を振って、彼はサロンへと向かった。
さて、どうもてなすべきか。
丁度今夜届けられた『貢ぎ物』を出そうかとも思ったが、カイル殿は吸血鬼にあるまじき変わった嗜好の持ち主と聞いている。
神の血と揶揄されるほどの上物のワインなら気に召すだろうか。
この機会を逃すわけにはいかん。あれほどの血筋の貴族と知り合える機会などそうは無いのだから。
歩き出したデルレット卿の頭からは、既にたった今罠に落とした吸血鬼ハンターの事など綺麗さっぱり消えていた。

 

ここは地下水路らしい。
緩やかに流れる水の両脇に細い通路が敷かれている。
とりあえずさっさと上がろう。冷たい水はそれだけで体力を奪われる。
「くそったれが…!」
強張る腕で藻掻くように水を掻き続け、ようやく通路となっている石畳に指がかかり、スランは一息つくと両手をかけて体を引き上げようと試みた。
ばしゃんっと大きな水音が立つものの、なかなか水中から逃れられない。
くそ、身体が異常に重い。
流れ水に浸かれば吸血鬼の忌むべき血の呪縛が働く。
「くっ…」
だが今夜はそれが顕著だった。
何だろう、まるで体に鉛でもくくりつけられた様にずしりとくるこの重さ ――

「ぶはーっ!」

スランが羽織る革のチョッキに、黒い袖がしがみついていた。
彼が勢いよく岸に上がると同時に、袖の先にある顔がざばっと水面へと引き上げられ、そいつは大きく息を吸った。
「死ぬかと思った…」
黒髪を額に張り付かせた、見覚えのある白い顔が。

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「うわあああああっ!!」

悲鳴とも怒声ともつかぬ声を上げてスランはしがみつく指を振り払ったが、カイルにとっては運良く、もう上半身は浅瀬へと引き上げられていた。
「な、な、何やってんだお前!」
「見れば分るだろーが!お前のとばっちりを食ったんだよ!!」
灯り一つ無い闇の中だろうが、お互い不自由はしない。
ひとしきりお互いを罵り合った後、
「あんのくそったれ領主!こけにしやがって!!」
そう言ってカイルはずんずんと通路を進み始めた。
「おい待てよ、道分かるのか!」
スランの問いに、彼ははんっと鼻を鳴らした。
「じゃあお前は一生ここにいればいいさ」
肩越しの一瞥を残し、黒衣の吸血鬼は全身から水を滴らせつつ歩き出す。
「……ちっ」
相手の言葉に従うわけではないが、確かにここでぼさっとしていても活路は無い。
濡れた頭をぐしゃぐしゃと掻き回すと、若きダムピールもその後を追った。

無言で歩く男二人。
狭い通路に反響するのは水路を流れる水の音だけだ。
吸血鬼は勿論、その血を受けるダムピールも足音など必要のない限り立てない。

と、突然くるりとカイルがスランへ向き直った。
「な、何だ?やるのか?」
あまりの唐突さに思わずスランの手が剣の柄へと伸びるが、カイルはそんな彼の動揺など目に入らぬ様子でスランの脇を抜けた。たった今歩いてきた道をすたす た引き返 し始める。
「どうしたんだよ」
相手の行動の意味を咄嗟に判断出来ず、黒い背中へ問いかける。
問われたカイルは足を止めることなく、ぼそっと一言だけ返した。
「…行き止まりだった」
「…………」
スランは二度ほど瞬きし、進もうとしていた道の先――確かに通路は壁で塞がれ、下に水を流すだけの溝があるだけ―― を見て、もう一度瞬きし…言葉を飲み込んだ。
ここでこいつをバカ呼ばわりすれば、それについてきた自分もそうなってしまうのだから。

誰かこいつを何とかしてくれ。

吸血鬼ハンターにあるまじき願いをスランは天を仰ぎ祈った。

 

「…何だ?」
カイルが眉をひそめ、再び足を止めた。
スランも剣の柄に手を添え、黒い背の先へ耳を澄ませる。
声だ。
獣の呻き声とも人の泣き声ともつかぬ音が、続く曲がり道の先から響いてくる。
「…………」
無言のまま吸血鬼と狩人は顔を見合わせた。
お互い臆する色はなく、ただ不審と警戒を感じているだけだ。

気配を消し、そっと角の先を覗き見る。
明かり一つ無い闇の中、赤い光と細い影が無数に蠢いていた。

「こいつら……」

赤い光は、血の色を点した虚ろな眼。
細い影はやせこけ無惨な姿を晒し牙を剥く人間の成れの果て。

「『犠牲者』か!」

スランがカイルの言葉を引き取った。
何十いるのだろう。
領主に血を吸われ地下に押し込められ、吸血鬼と化した身には何より恐ろしい流れ水に身を浸され、永久に苦悶し続ける女達の姿。
そして彼女たちが必死に向かおうと身をよじる先には――

「あれが出口か」

木製の梯子が細く長く天井の扉へと伸びていた。

全てを切り伏せるには数が多すぎるが、戻ったところで脱出の道も無い。
水に浸かった奴らは動けないのだ、梯子の周囲にいるやつらだけ始末すればいい。
抵抗できない相手、少々物足りないが…

「どいてろ」

剣を抜きかけたスランの前に、黒い影が立ちはだかった。

「何だよ、お前に指図される覚えは…」

「邪魔だ」

今までこの男から聞いた事のない威圧感のある声にスランの言葉は途中で飲み込まれた。
背を向けたままの男の横顔からのぞくのは、『犠牲者』どもとは比べ物にならないほど強烈な光を宿した赤い瞳。
この闇の中ですらその輝きは衰えない。
否、闇こそがこの魔性の美しさをより輝かせる。力をみなぎらせる。
地下の濁った空気も『犠牲者』の悲鳴も、全てを凍りつかせ、吸血鬼は命じた。
たった一言。

「どけ」

『犠牲者』の耳に届くのは、己の血を啜り支配した主の言葉のみ。
それなのに、この黒衣の吸血鬼の言葉に、のろのろとではあるが女達は従った。
水に浸された足は動かせないが、獲物を引き裂こうとこちらへ伸ばしていた腕を下ろし、ざんばらな髪で覆われた頭を垂れた。
開かれた路を、カイルは顎でしゃくり不愉快な同行者に示した。

「先に上れ」
「じょ、冗談じゃねぇ。背後を見せられるかよ」
「騙し討ちなんてするのはお前らハンターくらいだろ」
「てめっ…」
「ぐずぐずするな。出口が目の前にあるんだ」
「おい、まさか俺を庇う気か…?!」
感謝の気持ちなど微塵も湧くわけが無い。狩るべき化け物に庇われるなど!
スランのそのプライドを慮ったわけでもないだろうが、
「いちいちグダグダとこうるせーヤツだな。足手纏いはとっとと行って欲しいだけだ。俺は梯子を使う必要も無いんでね」
吸血鬼はそれだけ言うと、ぷいとスランと梯子に背を向けてしまった。
その間も女達は大人しく頭を垂れたまま。まるでそのまま石にでもなってしまったかの様だ。
「……」
舌打ちしてスランは抜き身の剣を持ち直し、カイルへ背中を任せる形を甘受し梯子へ足をかけた。
古びた梯子は一段一段スランの体重を支える度にきしんだ悲鳴を上げた。
人間より遙かに身軽なダムピールでも、これはいつ折れてもおかしくはない。

登り切って上へと続くとおぼしき扉の前に辿り着いた時には、ひどく疲れていた。
手足に神経を張りつめていたのだ、当然だ。
ちらりと下を見ると、カイルはまだこちらに背を向け女達と対峙したまま上ってこようとはしない。
実際今上ってこられたらこの梯子はそれこそ保たないが。

剣を握る手で梯子につかまり、空いた片手で扉の取っ手を押してみる。
錆びてざらつく鉄の扉は、向こう側から閂でもかけられているのか、びくとも動かない。
(畜生…ここまできて……)
スランは剣を腰の鞘へと収めた。
「なにグズグズしてやがる」
下からの苛立った罵声を無視し、スランは両足だけで梯子に踏ん張ると空いた両腕を頭上の出口へと押し当てた。
「くっ…」
めりめりと扉が歪み、同時に梯子も嫌な音を立て始める。

こんなところで果ててたまるか。
下にいる吸血鬼に助けを求めるなどもっとごめんだ!

ぎりりと音が鳴るほどに奥歯を噛み締める。

「うおおおおおおお!」

凄まじい音を立て、小さな鉄の扉は中へ弾け飛んだ!
同時にスランを支えていた木製の梯子も崩れたが、咄嗟に開かれた出口の縁に両手をかけ身体を引き上げる。

「大丈夫か?」
カイルの声に、
「ああ、扉が開いた!梯子が壊れちまった。お前は…」
どうする?と聞くまでも無かった。
瞬きした一瞬で眼下に佇んでいた男の姿は掻き消え、黒い霧がスランの前に流れ込んで渦を巻いたかと思うと優美な黒衣姿が現れた。
俺に梯子なんて必要ない、と言いたげに笑う吸血鬼。
一瞬スランは悔しげな表情を浮かべたが、ふと気付いた。
「おい、だったらさっき落とされた時も、そうやって落とし穴の出口から出りゃ良かったんじゃねーの?」
「……」
寒い沈黙の後、カイルは今ではひしゃげた鉄の板と化した扉を見やった。
「しかし大分手間取ってたみたいだな、こんな扉一枚開けるのに」
「鍵がかかってたんだ、仕方ないだろう」
「鍵…?」
しげしげとカイルはその扉を見ていたが、
「お前、もしかして押してなかった?」
「は?」
「これ、引く扉だぜ」
「……」

痛み分け

言葉には出さないけれど、お互い交わした視線はそう言っていた。
そしてそれ以上の追求を暗黙の内に止めたのだった。

地下水路から這い上がった部屋は、がらんとした石造りで出来たただの空き部屋だった。
水路への出入りにしか使われていない部屋なのか調度品一つ無く、壁に粗末な扉があるだけだ。

「そんじゃようやくデルレット卿にご挨拶と行くか」

ぶるぶるっと濡れた頭を振るとカイルは新しい扉へと向かった。
ふと、くん、と鼻を鳴らしてスランを振り返った。
「お前、怪我したのか?」
「え?」
言われてスランは初めて気が付いた。
さっき扉を開けようと力を込めた時に噛み締めた歯で口の中を切っていたのだ。薄く血の味がする。
「口の中をちょっとばかりな。たいしたこっちゃない」
「ふーん。そういえばダムピールってのは半分人間だから、あまりに渇いた時は自分の血を啜るって言う噂は本当か?」
鞘の鳴る音と鋭い切っ先がカイルの喉元へ突きつけられたのはほぼ同時。
「お前も自分の血を舐めてみるか?」
「遠慮する」

そして、扉は開かれた。