マシンが奏でる低い稼働音が狭い部屋を揺るがし、目の前のパネルがめまぐるしく点滅する。
『ガーディアン・プログラムON』
『外部干渉・履歴・NOプロブレム』
『ダイヴ・スタート』
男とも女とも付かぬ合成音声があちこちで繰り返された後、ダニエルが膝に抱える液晶モニタに、ぱぱっとプログラムの文字列が流れるように表示され始めた。
それが、電脳世界へのアクセスが開始された合図だった。
ソファに座り、今は愛用のベレー帽のかわりに各種のコードが繋がれたバイザーを装着しているのは、ダニエルだ。
その傍らに立つのは、昨日知り合ったばかりの少女、シリア。
無表情は相変わらずだが、それでも、彼を見る目には少しばかり驚きの色が浮かんでいる。
今の世の中、生活と電脳世界とは切り離せない。
世の全ての情報はネットを介し、支配される。
その恩恵を受けぬ人間は、このシティにはいない。
日常レベルの情報を引き出すだけなら簡単な端末で何の問題もないが、もっと上位の、そして大容量の情報をよりスムーズに引き出す為に、電脳世界に自らの意識を「ダイヴ」させることができる者達がいる。
『電脳師』と呼ばれる彼らの脳に埋め込まれた変換システムが、現実世界と電脳世界の行き来を可能にしてくれる。
そして、若干13歳であるダニエルも、その一人だった。
「変換、完了」
闇と光が明滅する世界の中を、ダニエルの心は漂っていた。
五感は電子変換され、今の姿は自分でプログラムしたホログラフィ映像に過ぎない。
自らの映像を造る必要は無いのだが、肉体の形を表示しないと何となく落ち着かない。
電子の海を泳ぎ、いくつかの壁を通り抜け、彼は目的の場所へとたどり着いた。
高層ビルのような大きく頑丈な壁が、視覚的に彼の目の前にそびえている。
いわゆるプロテクトだ。
「侵入コード解析。ダミーの準備はOK、と」
彼の目の前に細かな文字列が並び、組み合わされる。
方程式と演算の繰り返し。
そして…電子音と共に、目の前の壁はふうっとダニエルの前から姿を消し、道を開いた。
プロテクト解除、成功。
これだけ見れば、いとも容易い作業のように思えるが、実はとんでもない超難関だったのだ。
何せ、彼がたった今解除し、侵入に成功したのは、シティ屈指の大企業の要人者用アクセスコードだったのだから。
その難易度は、それこそ国家的な情報コードに匹敵する。
通常の電脳師では、第一の壁を破るだけで丸一日はかかるだろう。
侵入コードは毎秒ランダムに変更される仕組みなので、並の計算速度ではとてもじゃないが歯が立たない。
当の本人達ですら時々アクセスに失敗し、電脳回線を焼き切られるなんて事も…という笑えない話がでるくらいなのに。
が、ダニエルにとっては造作もない事だった。
だって、彼は―――
話は、ダニエルの住まいに初めてシリアを迎えたときに遡る。
「ダニエルちゃーん。お元気ぃ?」
いつも以上に陽気な声と表情を浮かべて現れた目の前の男に、ダニエルは不信と警戒の表情をありありと見せた。
「…何だよロナルド、そのノーテンキぶりは。いいことでもあったのか?」
バラックの中にひっそりと立てられた住居の中の一つが、ダニエルの住みか。
そこに戻ってきた途端の、お客様の来訪だった。
「いいことも何も…」
明るい声のまま、革ジャンに包まれた腕が、さりげなく逃げようとしたダニエルの肩にがっしと回される。
「へっへっ、聞いたぜ。お前がすっげぇ美人連れ込んだってな」
半分以上予想はしていたものの、ダニエルは心の中で「うげ」と漏らした。
正規軍が出張っての、あれだけ派手な立ち回りだったのだ、隠す方が無理というもの。
「しかも、ろくでなしの軍人共と揉めたってゆー話じゃん。ったく、ガキのくせに手が早いよな、お前も」
ダニエルより年上…と言っても、ロナルドと呼ばれた彼もまだまだ若い。
年の頃は18くらいか。
ダニエルの「お得意さん」の一人である。
「なー。お古でいいから、こっち回せや。最近出会いなくって寂しくってよ」
幸いシリアは、お尋ね者とは言え歩く軍の極秘事項。
その存在と重要さまでは広く知られていないのが、唯一の救いだった。
こいつが来たのが、彼女がこの場にいない時で良かった。
ダニエルは内心の安堵を押し隠し、早速この招かれざる客をさっさと追い出す算段を始めた。
「美人どころか…」
思いっきり嫌そうなダニエルの表情に、ロナルドの動きがぴたりと止まる。
「ドの付くブサイク女だけど…いい?」
「なに…?」
「買い手が無くて売れ残って、おまけにビョーキをうつされて怒ったクズ軍人に殺されかけたってゆー、カワイソウな女なんだけど…」
その言葉に、ロナルドの顔色がさーっと変わり、みるみる興味を失うのが見て取れた。
(だから、とっとと帰れっつーの)
あと一押しというところだろうか。
だが、そんなダニエルの苦労も、一瞬で水の泡となったのは次の瞬間。
プシュッ
前触れもなくドアが開き、反射的に二人の男はそっちを向いた。
「坊や、シャワー借りたよ」
そこから現れたのは、たった今まで会話に上っていた話題の主。
…が……
「あ、すまない。お客さんだったか」
湯上がりでほんのり上気した肌をバスタオル一枚で覆っただけの、何とも無防備な姿の少女は、男共の視線を気にするでもなく室内に軽く一礼すると、石鹸の香りと共に再びドアの外へと消えた。
魂を抜かれたような表情でその場で立ちつくすロナルドと、思わず頭を抱えたダニエルを残して。
ドアの油圧が抜ける音が止んだと同時に、ロナルドがゆっくりダニエルの方へと振り向いた。
「ダニエル…てめぇ……」
完全に目が据わっている。
「あっ…はははっ……」
思わず後ずさった背中に当たる冷たい壁の感触に、ダニエルは今ほど、この狭い部屋を後悔した日はない。
「どこがドブスだこの野郎!!」
「だーっ、話せばわかるって!!」
隣室の騒音に、シリアは水滴が滴る髪をタオルで拭う手を一旦止めて怪訝そうに首を傾げたが、何も言わなかった。
勿論、その原因が自分の事とは、露程も思ってはいないのだから。
あの人の名前を教えろ、紹介しろと喚くロナルドを、彼が前から欲しがっていた「もの」をロハでくれてやるからと口止めし、ようやく追い出したときには、もう真夜中になっていた。
「…どうしたんだ?その傷は」
「……別に」
心配してと言うよりも呆れの調子を含んだシリアの声に、鼻の頭に絆創膏を貼りつけた少年は、ふて腐れてそっぽを向いた。
シリアの事だ、きっと「よくよく、生傷が絶えない坊やだ」とでも思っているに違いない。
が、それでも彼女の方に視線は引きつけられてしまう。
(…うー…やっぱ、すげぇ美人だよな……)
冷たい表情を張り付けているとはいえ、その整った顔立ちは、ロナルドがお見知り置きをと喚くのも無理はない。
今は元通り後ろで髪を束ね、薄手のタンクトップとジーンズで包まれた細い肢体に、つい、バスタオル一枚で現れた先刻の姿が重なる。
湯気で潤んだ青い瞳と、上気した桜色の肩にまとわりつく、絹糸のような輝くプラチナブロンド…
またもや真っ赤になって、慌てて彼女から顔を背けた。
大人びた事を言っても、彼もまだまだ子供なのだった。
「…?」
ころころと変わるそんな少年の様子を、シリアは不思議そうに眺めていたが、その表情にふっと疲労の色が浮かぶ。
もう夜は更け、流石にダニエルも眠気を覚えた。
それでなくても、今日はあんなに大暴れした後だ。
何をするにもまずは眠ってからだとダニエルは決めて、シリアには、粗末とは言え自分のパイプベッドを譲ろうとした。
が、
「坊やは寝相、悪くないんだろう?」
床で寝るからと主張したにも関わらず、シリアの細い片腕で易々と抱え上げられ、ダニエルの身体はぽんとベッドの上に転がった。
さして広くもないが、細身のシリアと小柄なダニエルの二人なら、眠れない狭さではないものの―――
シリアにしてみれば、戦場では男女問わずの雑魚寝だと言うのに、今そんな事を意識する意味はない。
まして、相手は子供だ。
ダニエルは一応抗議しかけたものの、傍らにごろんと横たわったシリアは、瞬く間に微かな寝息を立て始めた。
「………」
その無防備な姿に、ダニエルはほんわかした気分と同時に、あまりのギャップに戸惑ってしまう。
並みいる兵士共をなぎ倒し、どれだけの血を見ても―――他人のものでも自分のでも、平然と、冷静な、生体兵器。
シリア
人並みはずれた運動能力と治癒力を持つ強化人間。
彼女は、そう明かした。
試作品の第一号。
ダニエルの前で、軽々と人体を破壊してのけた光景は、今もありありと目に浮かぶ。
洗脳を受けていたためか、昔の記憶は全くと言っていいほど残っていないと言う。
思い出せるのは、白い部屋とデータ集めの実験と、そして血と火薬の匂いが漂う戦場の光景だけ。
それなのに―――何か、大事なことがあったと言うことだけは覚えているらしい。
その何かが分からず、それを突き止めることが、今の彼女の目的となっている。
これからどうするのか、どうなるのか。
そんなことは、ダニエルには全く関係ないはずだ。
だけど…何となく、放っておけなかった。
血染めのパーカーを肩に一人で行こうとした彼女は、その能力とは裏腹に、ひどく脆く儚く危なげに見えたから。
まるで、血にまみれて泣いているガラスの人形のようで……
そのシリアが今、今日…いや、もう昨日になるが、出会ったばかりの自分の前で眠りに落ちている。
虚偽と暴力が渦巻くこの場所にダニエルが住み着いたのはごく最近なのだが、騙し騙され何度か痛い目に遭っている。
だが、彼には力があった。
他の人間にはない、特殊な能力が。
だから、何とか一人で生き延びて来られた。
誰かを信じ、誰かと暮らすなんて、考えたこともない。
そんな彼が、どうして初対面の、しかも一緒にいたお陰で命まで危うい思いをした少女を招き入れたのか。
彼自身もよく分からない。
勿論、絡んできた軍人共から助けてくれ、そして撃たれそうになったとき身を挺してかばってくれたから、という事は影響していただろう。
だが、そんな理由だけで?
彼自身の素性を考えると、目立つことは危険だし、厄介事はごめんだった。
(だって、俺も……)
「…そんな簡単に人を信じちゃ、この世の中渡っていけねーぞ」
まるで夢見る子供の様なシリアの寝顔から目をそらして呟くと、照明のスイッチを切ってダニエルも横になった。
「………」
シリアの寝息と温もりがダイレクトに伝わってくる。
それを意識した途端、またもダニエルの心臓は跳ね上がった。
…誰かと寝るのは、久しぶりの経験だった。
それこそ、ダニエルが忘れていた何かを思い出させてくれるような、不思議と安らぐこの感じ―――
早鐘の様になっていた鼓動もやがては落ち着き…ダニエルも深い眠りに落ちていった。
シリアが軍を脱走して数十日の間、実は一日も眠っていなかったと聞いて愕然とするのは、翌朝目覚めてからの話。
ちなみに、このスラムに潜り込んでから、若い女という身なりに惹かれた男共に襲いかかられたのは、両手の数では足りないとのこと。
そいつらがどうなったのかは、考える必要もないことだった。
さて、ロナルドに約束した「もの」を入手しなければならない。
「へへっ、シリアの力は見せてもらったから、今度は俺の番だな」
シリアルと水という簡素な食事を終えた後、どこか得意げなダニエルが部屋の隅から持ち出したのは、どこにでもある、ありふれた端末。
が、その侵入の手並みを見て、さすがのシリアも驚いた。
彼女も元軍人である以上、電脳世界へのアクセスだとて人並み以上に出来るが、それでも『電脳師』のレベルではない。
『電脳師』の能力は、誰もが手に入れられる代物でないくらい、世間知らずのシリアですら分かる。
しかも、それを扱うのが、こんな子供とは。
今回ロナルドの欲しがっていたもの―――シティ屈指の大企業「インデラル」の警備データー。
銃火器類から、果ては棺桶まで手がける、まさに死の商人に相応しいこの会社の倉庫を、彼は狙っているらしい。
手に入れたブツは、革命軍―――レジスタンスに高値で流す。
ロナルドの生業は、いわゆる『何でも屋』というやつだ。
必要な物を手に入れ、必要とする者に流す。
そしてダニエルは、必要な『情報』を彼に売っていた。
時には、社員証やフリーパスまで手に入れてやる。
このスラムにだって電脳師は腐るほどいるが、ダニエルほど秀でた者はいない。
だから、子供といえど、ロナルドを始め、彼を頼る者達がここに訪れてくるのだ。
「よっしゃ。とりあえず、こんなもんだな」
必要な情報は手に入れた。
ロナルドのアドレスに送信し、一応念のため自分用のバックアップも取っておいた。
「シフトすっか」
必要な命令文を打ち込んでゲートを閉じ、侵入の痕跡も綺麗に消していく。
(あっ……)
現実世界へ意識を戻しかけて、ふとダニエルは思い返した。
謎に包まれている、シリアの経歴。
軍のマザー・コンピューターには、彼女の全てが記録されているはずだ。
そこに侵入すれば、彼女が気にかけている、「忘れている何か」が分かるかもしれない。
侵入「できれば」とは言わない。
彼に侵入できない電脳世界の壁などないのだから。
「‥‥‥‥」
意識を無くし、まるで死体のようにぐったりとしているダニエルの肉体の傍らでモニタを眺めていたシリアの視線が、つとドアの方へと動いた。
常人以上に研ぎ澄まされた感覚のアンテナが、こちらに向かってくる存在を捉えたのだ。
「おい、坊や…」
ダニエルに声を掛けかけて、今、彼の意識はここに無いことに気づき、電脳世界の海と交信する手段としてキーボードに向かいかけたとき、がくんと彼の体が動いた。
ダニエルの意識が一瞬で肉体へと戻ってきたのだ。血相を変え、バイザーをコードと共にむしり取る。
「シリア!逃げるぞ!!」
電源を切るのもそこそこに、折り畳んだ端末を抱え、ドアを開け放つ。
その様子に、シリアも一瞬で状況を理解した。
昼でも薄暗いスラムの通りへと、二人は躊躇うことなく飛び出した。
「…一足ばかり、遅かったか」
生活の匂いが漂うものの、住人の姿だけが忽然と消えた室内を眺めつつ、その士官は呟いた。
「本当に、ここに奴がいたのですかね?こんなスラムに知り合いがいたとは考えられないのですが」
隣の寝室を覗いてきた部下が、怪訝な面もちで言う。
「この付近でうちの部隊と争ったのは事実だ。ここに住んでいた奴を調べてこい」
命令を受けて飛び出していった部下の背中を眺めつつ、考える。
「何故気が付かれた…?まるで、情報を先読みした様に」
「へっ…。やっぱり、『なりそこない』は『本物』には勝てないって事ですかね?」
ほんの数十分前にシリア達がいたソファに、知らずとはいえ、どっかりと腰を下ろした部下の一人が意味ありげな視線と言葉を、上官であるその士官に向けた。
「……」
銃声は一発。
それだけで十分だった。
ダニエルがその光景を見たら、大いに嘆いた事だろう。
このソファ結構気に入ってたのに、汚しやがって、と。
眉間から血をほとばしらせてゆっくりと前のめりにくずおれる同僚の姿を見て、他の男達は一斉に姿勢を正した。
「無駄口叩く余裕の他の使い道を知らない奴は不要だ」
最小限の動きで銃を腰に差し込む姿は、見ているだけで惚れ惚れとするものだった。
その士官の美しさはそれだけではない。
短くカットされたブロンドに、しなやかな体を覆うカーキ色の軍服がよく映えている。
藍色の瞳に浮かぶのは、強い意志の光と、それでも押さえきれない何かしらの感情。
「シリア…」
それが向けられるのは、今は目の前にいない一人の少女。
「あんたを捕まえるのは、私だよ」
端正な唇を引き結ぶと、その士官は軍靴の音を響かせて、もはや用のない部屋を出ていった。