チッと乾いた音と共にモニタの画像が入れ替わる。
軍服に身を包み、戦場で銃を構える姿。
識別ナンバーと共に表示される、真正面からこちらを見つめる顔。
白い部屋に横たわり、ボディチェックを受けているシーン。
全て、一人の少女を追った映像だ。
「これが、コードNo.wー3086-5-24897、パーソナルネーム『シリア』です」
モニタの横に立つ白衣の男が、機械に負けないほどの無機質さを漂わす声で居並ぶ者達に解説する。
「こんな小娘一人にきりきり舞いさせられるとは。貴様達は一体何をしておったのだ」
恰幅の良い体格を軍服に包んだ男が、苦々しげに葉巻を噛んだ。
声を向けられた白衣の男は、動揺の欠片も見せず答えた。
「その小娘をまだ捕らえられぬ閣下の部下に、そのお言葉を向けられてはいかがですか」
「何だと?貴様…」
ただでさえの赤ら顔をもっと赤く染めて男が席から立ち上がりかけるのを、隣に座っていた背広姿が制した。
「待ちたまえ。それよりも、今回の経緯を手短に解説してもらう方が先だ」

強化人間。
力と計算力だけのロボットやAIとは違う、生身の人間そのものを超越した人間。
その実験に耐え、適合した成功例第一号、『シリア』。
だが、彼女は逃げた。
研究所の洗脳システムがどうして破られたのか。
そんな事を論議するのは後だ。
今は、逃げた獲物を捕らえなければならない。

「シリア、ちょっ、ちょっと、この辺でストップっ!」
スラムの奥の奥、それこそまともな人間なんかいそうに無いジャンク街の近くで、小脇に抱えたダニエルの声に、ようやくシリアは歩調を緩めた。
実際に敵の姿を見た訳ではないが、周囲にそれらしい気配はない。
近くのゴミ溜でトリップ中の浮浪者が、二人の姿を不思議そうに眺め、また自分の世界に潜っていく。
「何があった?」
とりあえず安全と判断し、ダニエルを下ろしてシリアが問うた。
それに答えず、ダニエルはアスファルトの上に座り込み、抱えていた端末を開いて何事か打ち込み始めた。
滑らかな指の動きは、13才の子供のものとは思えない。
「よし、とりあえずOKかな」
一人で納得し端末を閉じると、ここでようやくシリアを見た。
その表情は、真剣そのもの。

「気づかなかっただろうけど、シリアには発信器がつけられてるんだ」

その言葉で、シリアの眉が上がる。
「だから、俺のヤサもあんなにあっさりバレたんだよ」
軍のコンピューターに潜って一番最初に接触したシリアのファイルにあったのは、発信器の存在と現在の居場所、そしてそれを追跡する者達のデータ。
発信器の事を知り、シリアの経歴にアクセスする間も無く慌てて彼は戻った。
彼が戻るのがあと少し遅ければ―――
あの時、軍のコンピューターにアクセスしなければ―――
すでに二人とも捕らわれていただろう。
スラムはただでさえ電波ジャックとそれを防止するための怪電波が飛び交っているから、向こうさんとしてもすぐには居場所を把握出来なかったに違いない。
「その発信器は、どこにある?」
脱走時の衣服は皆破棄したし、持ち出した荷物も何もない。
身一つで飛び出した人間に、しかも気づかれない様発信器を付けるには…

「ここだよ」

そう言って、ダニエルは自分の側頭部を人差し指で指して見せた。
「脳、か」
シリアもつられて自らの頭を押さえた。
端正な眉が歪む。
何故今までそれを考えなかったのだろう。
発信器を埋め込むのは、脱走の恐れのある実験動物に行う常套手段ではないか。
取り出した途端に起爆するようセットされた厄介な代物だった場合、もはや手の打ちようがない。
だから、獲物は逃げられない。
「…迂闊だったな」
細い指が、自嘲気味にプラチナブロンドを掻き上げた。
逃れたつもりで、自分はまだまだ檻の中にいた。
今こうしている間にも自分の頭の中にあるチップが電波を出し続け、それは追跡者達への手助けとなる。
その手をふと止め、シリアがダニエルの方を向いた。
「…なら、ここでのんびりしているわけにはいかない」
「あ、それは大丈夫」
ダニエルは抱えた端末を片手でぽんと叩いた。
「シティの数カ所の電波塔から、発信器と同じ周波数を流すようにしたから。まぁすぐに嗅ぎ付けられるだろーけど、少しの時間稼ぎにはなるって」
あっけらかんとダニエルは笑ったが、シリアは笑わなかった。
「いい加減種明かしをしてもらおうか。坊やこそ、ただのスラムのスリってわけじゃなさそうだからな」
子供だからと見くびりはしない。外見年齢など、どうにでも誤魔化せる。
シリアが素性を明かしたのも、出会ったあの日、もう二度と会うこともないと思ったからだ。
だが、これから行動を共にするのであれば、呑気に笑っていられない。
何せ知り合ってからまだ二日も経っていない間柄なのだから。
だいたい、この坊やは、何だってこうも付いてくる?

「んなに警戒すんなよ。俺だって、軍の奴らにとっ捕まったら痛い腹持ってんだから」
冷たい瞳から目を逸らし、ダニエルは頭をかいた。
「とりあえず、先にその発信器を何とかするのが先だろ」
「………こいつは、どうにもならないだろう。坊やが凄腕の電脳師だろうと、医者じゃない」
軍の医療機関でも無い限り、取り出すなんて不可能だ。
だが、あそこに戻るつもりなどない。
なら、どうすればいい…?
シリアの眼が暗くなり、そして…くるりと背を向けた。
「おい、シリア?」
「戻る気はないが、一生逃げ切れるとも思えない。坊やはあたしと離れた方がいい」
「ちょっ、待てったら!」
慌ててダニエルがシリアのパーカーにしがみついた。
それでも、彼女は止まらない。
そのままずるずると引きずられていく。
端から見ればそれは喜劇そのものなのだが、本人達は至って真面目だ。

「あるんだってば、そいつを取る方法が!」

パーカーの裾が千切れるかどうかの瀬戸際にダニエルの放った声が、ようやくシリアの歩みを止めた。
再びダニエルに向いたアイスブルーの瞳に、微かな迷いの色が浮かぶ。
「……本当か?」
「俺を誰だと思ってんだよ。ダテに潜ってるわけじゃねぇ」
シリアに真正面から見つめられて条件反射に頬を赤らめながら、それでも得意げに、ダニエルはベレー帽を被り直した。
「俺の身の上も後でちゃんと聞かせるからさ、とりあえず今は信用してくれよ!」

こうして、かつては人間凶器とさえ呼ばれた少女は、再び少年の道案内に従った。
迷路のようなスラムを歩き続け、ようやくダニエルが足を止めた。
ダニエルが住んでいた地区とは大分離れており、追跡者が今すぐ嗅ぎ付ける心配はなさそうだ。
目の前にそびえる傾きかけた廃ビルの、いつ崩れてもおかしくない階段を地下に降りていくと、やがて閉ざされた鋼鉄製のドアが現れる。
周囲の汚い壁に比べ、そのドアだけはやけに頑丈に作られていた。
ドアの前に立つと、脇にあるスピーカーから女の声の合成音が流れてくる。
「IDヲ提示セヨ」
音声の途中で、ダニエルがカメラアイに自分の目を近づけた。
赤いランプが一瞬で眼紋を認識し、
「認証シマシタ」
ピーッと言う確認音と共に、重量感のあるドアはゆっくりと左右に開き、訪問者達を受け入れた。
最初に踏み入った廊下は、外と比べると意外と綺麗で広かった。
リノリウムの床に点光した矢印に従い、先へと進む。
途中、複数のカメラアイに監視されるのがシリアには気にくわなかったが、先を歩くダニエルが気にもせずひょいひょいと進んでいくため、壊すのは止めておいた。

幾度か角を曲がり、再び現れたドアを抜けた所に、ようやくお目当ての『医者』がいた。
「わぁおっ、珍しーい!健康優良児のダニエルが医者にかかりに来るなんて」shilia3
灰色のケーブルやよく分からない機械が立ち並ぶごみごみした部屋の中、鮮やかな赤い髪の女が二人を迎えた。
「それも、こんな別嬪さんを連れてくるとは手が早くなったもんだ」
けらけらと女は笑い、その声に合わせて女の左の眼窩にはめ込まれているスコープも赤く明滅する。
「ドークータぁー!今日は治療を受けに来たんだよ!」
頬を赤くしたダニエルが、傍らに立つシリアを親指で示した。
「脳に仕込まれた発信器…。あんたなら、取れるだろ。俺の時みたいに」
俺の時みたいに、と言う言葉に、シリアは反応した。この坊やからは、訊くことが沢山ありそうだ。

ドクターと呼ばれた女とシリアの視線がぶつかった。
左目のスコープが何かを探るように、レンズを絞る。
「……ふ、ん。こりゃまた厄介な所に埋め込まれたモンだね」
シリアの眉が、少し上がった。
「おーおー、ご丁寧に脳底部か。この場所、それに、この発信器の型番…。あんた……」
「ストーップっ!」
そこまで口にされてシリアが僅かに眼を細めたとき、ダニアルが口を挟んだ。
「そこまで!料金は108万クレジット!!でどうだよ。ドクター」
その言葉に、ドクターはシリアに向けていた視線を外し、ぱちんと指を鳴らした。
「オッケー。いいでしょ、手を打ちましょ」
並の人間が何年もかけて稼ぐ金額をあっさりと口にした子供と、それを平然と受け取る女。
「ダニエルちゃんは気前がイイから嬉しいよ。電脳師のお得意さんは作っておくモンだね」
どうやら彼女、ダニエルの事を少なからず知っているらしい。
その事に、シリアとしては少なからず関心はあったが、とにもかくにも、交渉は成立した。
今は何より、埋め込まれた邪魔モノを削除するのが先だから。

彼女は『ドクター』とだけ呼ばれる、闇医者。
外見年齢は若いが、その肉体は殆どを機械化したサイボーグ。実年齢は分からない。
噂では軍の研究所で辣腕を振るったマッドドクターだったとも言われるが。
もっとも、治療を受ける患者にとっては、腕さえ確かなら素性など関係ないが。
そして彼女は、生身も機械も『治療』出来る、確かなその腕を持っていた。

最初、シリアは麻酔を拒否したが、いくらなんでも麻酔なしで脳手術など出来るわけがない、とドクターも大荒れした。
だがシリアとしても、こんな見知らぬ人間相手に無防備な身を預けるのは躊躇われたのだ。
ここでまたダニエルが必死に説得し、しぶしぶシリアは従うことになった。
現時点では、ダニエルのことは一応信用していた。
もしこの坊やがシリアを裏切るつもりなら、今朝の追っ手に引き渡していただろうから。

手術そのものは数分で終わり、後処置を終え部屋から出てきた白衣姿のドクターが、ダニエルに向かって何かを放った。
「こいつが埋め込まれてた発信器さ。記念にとっておくかい?」
「いらねーよ」
小指の爪ほどの小さなチップを、ダニエルは指先でひねり潰した。
これで、とりあえずは追跡者達の驚異は消えた。
「で、シリアは?!大丈夫か」
「あー、全く、何なんだいあの娘は。久々に厄介な患者にお目にかかったよ」
困惑半分、好奇心半分のドクターの声。
「ちょっと皮膚に傷を付けようものなら、あっと言う間に塞がっちまう。どこかの新開発のスキンコーティングでも受けたのかい?」
裏世界で生きる闇医者といえど、強化人間の存在までは知らないらしい。
「それよりも、シリアは?」
マッドドクターの事だ、このままシリアを預けておくと、実験でも始めかねない。
「会ってみるかい?まだ寝てると思うけど」
せっつくダニエルに彼女は口元を緩め、シリアが眠る病室へ案内した。
「いっとくけど、大量に麻酔使ったんでね。目が覚めるのは明日くらい…」
言いながら病室のドアを開け―――かくんと顎が下がった。
「…嘘」
手術が終わって、ものの数分もしない内に、『患者』はけろりとベッドから起きあがり、頭部に巻かれていた包帯を外しているのだから。
麻酔がなかなか効かず、象一頭を余裕で眠らせる量を前投薬し、術中も同量の麻酔を持続注入し続けたというのに。
常人ならそれだけで昏睡し死亡している。
仮に麻酔への耐性があったのだとしても、小さいとは言えまがなりにも頭に穴を開け脳をいじくったのだ。
しかも、それは電脳化されていない、生身の脳。
当日は絶対安静。その後リハビリを。
それが――
「お陰ですっきりした」
無造作に包帯を傍らに放り、シリアはベッドから立ち上がった。
ダニエルはと言えば、彼女の回復力を既に目の当たりにしているのだ、今更驚きはしなかった。
「んじゃドクター、金は後で入金しとくから」
「あ、ああ」
毒気を抜かれた表情で、百戦錬磨の『ドクター』は、立ち去る少年と少女を見送った。

「あのバラックに住み着いていたのは、ダニエルと言う子供です。外見年齢的には12~13歳ほどの。と言っても、住んでから日は浅 かったらしいですが」
「その子供と、シリアと、何の繋がりが?」
「それは…」
上司の質問に、部下は口ごもった。
「ご存じの通り、スラムの住人は住基ネットでも容易に把握できるものではありませんし、聞き込みも芳しくなく…」
「もういい」
ぴしゃりと冷たい声の一言。
恐縮しつつ退散する部下の背中を見ようともせず、その士官は指揮車の中で軽く目を閉じた。
瞼の裏に浮かぶのは、プラチナブロンドを翻すしなやかな影。
姿を確認したわけでは無く、単なる発信器の電波のみの情報だったのだ。あまり期待はしていなかったが、それでも――
皮肉なものだ。 よりにもよって、私があいつを追わされるとは。
能力云々では、きっとない。上の、皮肉な配役だろう。
あまりに皮肉過ぎる、結末――
唇を歪め、士官は低く笑った。
 
 
 
 
すっかり陽は落ち、人工的な明かりが夜の闇を払い始める。
スラムに比べると、シティは正に光の洪水だった。
夜でも眠らない街。
いつから、この世界は眠りを忘れたのだろう。

「ヨウコソイラッシャイマシタ。857682号室ヘドウゾ」
無人のフロントに電子合成音の案内が響いた。

「…どこに、こんな所に泊まれる金があったんだ?」
ダブルのベッドが二つ並んだ、だだっ広いツインルームの真ん中に突っ立ち、シリアは皺一つないベッドにダイブしているダニエルに問いかけた。
その声はもはや、驚きを通り越して呆れの域に達している。
見下ろす窓からはシティの夜景が一望できる。
ここは、中心地より少し離れた繁華街の中に林立するホテルの一室。
シリアの追っ手がスラムにいるのなら、逆にシティの方が安全だろうと踏んだのは、間違いではない選択だ。
それにしても――
「なぁに言ってんだよシリア。クレジットなんて、電脳界じゃ単なる数字の羅列に過ぎないじゃんか」
無造作に、それでもちょっと得意げなその一言と、彼の傍らにある端末が全てを物語っていた。
彼は電脳師。しかも、特A級。
そんなダニエルにかかれば、金なんていくらでも用立てられる。
シリアの手術代だって、ダニエルの懐が痛むわけでもない。 少し数字をいじるだけで良いのだ。
それなのに、あんなゴミ溜めのスラムにいて、スリなどしていたのは――
「で、結局坊やは何者なんだ?」
確かめたかったシリアの問い。
最初はスラムの単なるスリの小僧だと思った。
が、実態は凄腕の電脳師。そして、ドクターとの会話で出てきた、
『脳に仕込まれた発信器…。あんたなら、取れるだろ。俺の時みたいに』
と言う言葉。
ふざけた表情を改め、ダニエルはベッドから起きあがった。

「んー、何から話そうか」
首をかしげ、しばらく思案した後、
「…シリアさ、どうしてあの夜いきなり逃げ出した?」
突然の質問に、シリアの表情に困惑が広がった。

どうして?

それは、『自我』を取り戻したから。

何故突然我に返った?

どうして洗脳システムが解除された?

思い出せ、脱走したあの夜、自我の意識を取り戻す寸前、一体何があったか――

「少佐殿、お疲れさまでした」
部下の敬礼にろくに頷くこともないまま、女軍人は廊下を歩み去った。
「…ったく、いい女なのに、全く愛想がねえよなぁ」
彼女の姿が消えた頃、残された部下達が声を潜めて囁き合った。
「でも、戦場じゃ絶対出会いたくねえよ。あれの通った後は、雑草すら生えやしねえってな」
常人には聞き取れないはずの会話を、彼女の耳は機器に頼ることなく取り込んでいた。
「サイボーグって噂は本当かもな」
「確かにな。見た目は若い女だけど、元はゴツいおやじだったらどうするよ?」
「女の方が相手も油断するしな。案外当たってっかもよ」
だが、それも脳に溜めることなく右から左へ抜けていく。
彼女の頭の中にあるのは、次回予定されている作戦行動。
その前に医療センターへ行って、本日の定期検診を受けねばならない。

染み一つない白衣の男は、入室してきた軍人の姿を見て笑顔を浮かべた。
「おお、wー30…いや、『シリア』。本日も無事戦果を上げた様だな」
男の讃辞にも表情を動かすことなく、さっさと上着を脱ぎ、決められたベッドへ横になった。
男の助手が近寄り、筋電図・心電図・脳波・バイタルチェック…様々な測定機器のコードを身体のあちこちに貼り付ける。
勿論、データをリアルに記録するための、電脳界へリンクしたコードも。
準備が終わると部屋の照明は落とされ、機器の機械音がやけに響く。

「さあシリア。いつも通り、リラックスしたまえ」

男の言葉に、シリアは瞼を閉じた。
彼女は夢を見ない。
いや、見たとしてもそれは認識していない。
彼女への研究対象はその肉体であって、精神では無いのだから…。

突然、脳にノイズがかかった。
まるでブラウン管の砂嵐の様に、ジジッっと低い雑音と共に暗闇が乱れる。
そして、頭を揺さぶられるような激しい不快感。

「なんだ?これ…」

ぱちりと目を開け身を起こすと、いつの間にか室内はあちこちスパークの火花を上げていた。
悲鳴と罵声を上げる研究員たち。
そして、シリアの口から漏れた言葉に、白衣の男が信じられないと言いたげな顔を向けている。
他の所員は煙を上げる機器への対応に大わらわで、彼女の様子に気付かない。
男だけが気付いた。
シリアが、思った言葉を、自ら発した。
それは、『自我』を持った人間の証。
白衣の男が、何か叫びながら腰の銃を抜いた。
麻酔銃!
認識と同時にシリアの肉体は勝手に動いた。
咄嗟に床に転がり下り、今まで寝ていたベッドを横倒しにして盾にする。
パラライザーはベッドマットを貫通することなく、その間にシリアは開け放たれている出口に向かって身を翻した。
そこでようやく他の所員も新たな異変に気づき狼狽の叫びを上げたが、もう遅い。
数分前まで従順だった実験動物は、今や歩く最高機密となって飛び出してしまった。

「そうだ、あの時、電脳界で激しい障波が…」
シリアが何かに気付いたように、顔を上げた。
「あれは…」
ニコリとダニエルは笑った。

「俺も、あの日逃げ出したんだよ」

シリアが強化人間のプロジェクトとして育てられたように、彼も電脳師になるべく育てられた。
両親の顔は知らない。
もしかしたら試験管ベビーだったのかも知れないが、研究所は教えてくれなかったし、彼の研究所所属以前のプロフィールは空白。やつらにとって、一個人の出 生など問題ではなかったらしい。
能力さえあれば。
小さな肉体に埋め込まれた変換システムの数々。
幼い分、順応も早く、また素質もあったのだろう。
他の適合者に比べ彼は群を抜いて成長し、8才の頃にはもう誰も追従できない程の腕前になっていた。
コンピュータに愛された子、と所員たちは呼んだ。
電脳界を征する事が出来れば、それは大げさに言えば世界を握るも同じ事。
情報操作は、どんな力よりも強い。
もちろん、そんな諸刃の剣である子供を大人しく野放しにして置くわけがない。
シリア同様洗脳処置がなされた。
彼は薬物と暗示によって完全に服従を誓わされる前に、自分の人格をバックアップして密かに残しておいた。
13才の誕生日の夜、そのバックアップが復旧するようにセットして。
勿論、それまでに得た経験や知識を上書きしないよう。
その日、自由になるために。
幼い彼なりに、このまま一生機械として使われ続ける事に嫌気がさしていたから。

「警備システムの脆いのなんの。何たって一部は俺が組んだんだしな」
ゲラゲラとダニエルは笑い、対照的にシリアの眼には困惑が浮かぶ。
嘘とは思わなかった。
ダニエルの実力は見たし、話の辻褄も合う。
だが…
「自分が脱走するだけなら、もっと簡単だっただろうに。何故、あの研究所内の警備だけじゃない、全システムをクラッシュした?」
その余波で偶然ネットに接続していたシリアは脳にショックを受け、自由になれたのだが。
もっともなシリアの質問に、ダニエルの回答はもっと納得できるものだった。
「ン年間も黙って実験台になってやったのに、何の仕返しもしないで出ていくなんてシャクじゃん」
あの日の警備担当者が聞いたら、怒りの余り泡を吹いて卒倒間違い無しだ。
システムを復旧させようとした電脳師の数人が、ダニエルの仕掛けておいたトラップに引っかかり、ホワイトアウトして使い物にならなくなった損実も大きい。

シリアの脳裏に、ダニエルと出会った日が回想された。
「それなら何故、坊やを見たあの軍人達は捕まえようとしなかった」
シリアと同じ様に、軍の大切な実験体であり機密。
いや、ある意味シリア以上に驚異であるこの子供を、どうして彼らは知らなかったのか。
シリアと同じく、一般兵士には決して知らされることのない機密事項だったから?
では、どうして追跡部隊が組織されない?

「それもカンタンだよ。俺は、『軍にはいなかった』んだから」
彼が脱出したとき、破壊したのは警備システムだけではない。
彼の成長・記録、登録された全てのカテゴリーを。
「流石に電脳化されてない個人の脳までは簡単にクラックできないから、一部の研究者は俺の事覚えてるだろうけど、それを証明する資料は無いもんね」
そこまで言って、気付いたようにダニエルは付け加えた。
「あ、シリアの事も消せるけど、さっき侵入したばっかだから今すぐはヤバいからさ、もーちっと待っててくれよ」
「………」
改めて、電脳師の凄さを見せつけられた。 電脳界を味方にするとは、こういうことか。
体一つで逃げ回る自分が、とてつもない道化に思える。
「…じゃあ、坊やは知っていたのか。あたしの存在も」
「一応プロジェクトの概要は知ってたけど、興味無かったら全然見て無かったんだ。今度調べとくよ」
まるで、欲しい本を本屋で買ってくると言っている様な軽い口調。

――頭が、痛かった。
「…シャワー、浴びてくる」
会話を一旦そこで打ち切り、シリアは手を振るダニエルを残してバスルームへと消えた。

天井から降り注ぐ熱いシャワーを、シリアは突っ立ったまま浴びた。
ダニエルとの会話を整理したかった。

同じ境遇だった電脳師の坊や
自分が自我を取り戻したきっかけ
軍時代の自分

さっきの会話のお陰で、少しずつ、忘れていた筈のかつて自分が見た光景を思い出す。
硝煙の臭いが渦巻く瓦礫の山
自分を憎悪の視線で睨みつつ息絶えた血塗れのテロリスト
自分を軍曹と呼び、敬礼する、明らかに自分より年輩の屈強な男達

そして――

そこから先が、うまく思い出せない。
シリアが思い出したいのは、軍時代なんかじゃない。
実験対象だった日々じゃない。
忘れたくないと思っていたのは、もっと、もっと違った何かだった筈なのに。

駄目だ。
どれだけ考えようと、彼女の頭の中のヴィジョンは上手く形を取ってくれない。

不意に、愛おしげに自分を眺めやる白衣の男の記憶が脳裏に浮かんだ。
何かを言っている。
『素晴らしい…私の作品』
滅多に崩れないシリアの表情が、シャワーの中で歪んだ。
ぎりっと唇を噛み、拳を叩きつけた。

ふかふかのベッドの感触は、ダニエルを半分以上夢の園へと誘いかけていた。
昨夜も、ぐっすりと熟睡と言うわけにはいかなかったし。
バスルームのドアが開く気配で、彼は気怠げに瞼を開けた。
ぼんやり霞む視界の中、シリアの姿を探して――彼の眠気はいっぺんに吹っ飛んだ。
「し…シリアっ!!何だよそのカッコ!」
跳ね起きつつ、顔面を真っ赤にしてダニエルは反射的に下を向いた。
「…何か変か?」
これで二回目。
そう、シリアはまたしてもバスタオル一枚の姿を晒していた。
「ふ、服はどーしたんだよ!」
「洗濯」
バスルームの隣から、確かにごとごととランドリーの音がする。
「………」
もしかして、俺はからかわれてるんだろーか?
ダニエルはむくれて、シリアからそっぽを向いた。
身分を明かしても、シリアの態度は全く変わるところがない。
それはありがたい事なんだけど、それにしたって俺だって男だってゆーのに、こいつには羞恥心ってもんが…
「わっ?!」
その体が、ベッドからひょいと持ち上げられる。
「ほら、坊やも入っといで」
襟首をつまみ上げたまま、シリアは再びすたすたとバスルームへ向かった。
「わ、わー!入るから離せってば!!」
全力で暴れたダニエルの抗議は聞き入れられ、
「分かった」
シリアはダニエルの体をぽんと脱衣所に放り込んで扉を閉めた。

「……」
結局、ダニエルはその部屋ではシャワーを浴びることはなかった。
何故なら shilia3-2
シャワーのパネルは無惨に凹み、黄色い火花と煙を噴いていたから。
さっき夢うつつで聞いた破壊音を思い出し、ダニエルは一人納得した。