外の熱気が嘘の様にひんやりとした空気が、寺院の中を漂っている。
壁に掲げられた松明が、ぼんやりと暗く続く回廊を照らしあげる。
年代を感じさせる石柱や彫刻が施された廊下は、昔は多くの信者が訪れ、聖なる祈りの声が絶えることなく響いていたのだろう。
――が、今、まさにその廊下を全力疾走しているマーヤにとっては、そんな事は知ったこっちゃない。
「はぁっひぃっ…」
今曲がったのは、何度目の角だったろう。
迷路のように入り組んだ寺院の中は、すでに来た道すらさっぱりわからない。
しかも、石で出来た回廊は物音を反響させ、魔物の唸り声や足音が四方八方から迫ってくる様な錯覚に陥る。
もう寺院の中の魔物にも、存在が知られたのだろうか?
「も、もぉダメ……」
廊下の両脇に立ち並ぶ太い柱の影でようやく足を止めた。
犬のように舌を突き出し、ぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。
心臓がジャンプし、肺が口から飛び出しそうだ。
明日は間違いなく、筋肉痛だな。
…無事、明日を迎えられるのなら。
不吉な考えを、大きく頭をく振って追い払い、何とか人並みに呼吸を整えたマーヤは再び歩き出した。
その辺の暗がりから今にも異形の者が飛びかかってきそうで、一歩歩く毎に全身の神経がすり切れる思いだ。
ああ、胃が痛い。
カタツムリと良い勝負の速度で、じりじりとにじり歩く。
「も、もう嫌だぁぁ…帰るぅぅぅ…!!」
いつも脳天気なお気楽娘も、今や顔面蒼白、強ばった表情には冷たい汗の玉が浮いている。
魔の力を持つ魔導師と言えど、まだ16歳の小娘にこの任務はやはり酷だった。
それに、いつも一緒だったあの二人が側にいればまだしも、たった一人で……
長い一本道を歩く内、目の前に小さな木の扉が見えてきた。
少し躊躇はしたものの、逃げてばかりでは事態は進行しないし、ここから出ることも叶わない。
扉にそっと耳を押し当て、中から何の物音もしないことを確認すると、怖々ドアノブに手をかける。
鍵はかかっておらず、古びた扉はきしむ音を立てながらゆっくりと動いた。
細く開いた隙間から、恐る恐る中を伺ってみる。
――薄暗くて、よく分からない。
それでも、中に誰かのいる気配はないので、思い切って中に滑り込む。
そこには何も無かった。
明かり取りの小さな窓から差し込む光で見える室内には、小さな机と椅子が申し訳程度に置いてあるばかり。
単なる空き部屋だったらしい。
「な、何だぁ…」
安堵と失望混じりの気分で大きく舌打ちし、入ってきたばかりの扉を開ける。
ガチャ
今、もっとも見たくないものが、そこにいた。
さっきのリザードマンと同じように二足歩行で、ごつい鎧をまとった、サイの顔をした魔物が。
相手も突然目の前に現れた人間の少女に面食らっているようで、お互いそのまましばらく固まる。
「………」
ぱたん
「フゴォ!」
無言でドアが閉じられて数刻後、ようやく我に返った魔物は扉に突進した。
「なっ、何かない?!出口!!」
相手が呆けていた隙にとっさにノブに椅子をかませ、扉の前にあてがった机のお陰で、多少の時間は稼げるだろうけれど、そう長くは持ちそうもない。
慌てふためきながら辺りを見回すものの、床を舞う塵以外、見事なほど何もなかった。
明かり取りの窓は小さすぎて子供だって潜り込むことは不可能だ。
机を動かした下の床に、秘密の抜け穴があるわけでもない。
その間も、扉の外からは耳障りな咆哮と、どおんと言う音と共に厚い木の扉がたわみ続ける。
「……!!」
閉じこめられた密室
外には、魔物
万事休すを絵に描いたようなこの展開。
(せ、せめてフレアみたいに瞬間移動魔法が使えたらっ…!!)
とうとう扉の蝶番が音を立てて弾け飛び、中からあてがっていた椅子や机さえも跳ね飛ばし、扉は開かれた!
「…………!!!!!!」
恐怖のあまり、頭の中が真っ白になったマーヤの目の前に、さっきのサイ顔の魔物が、しかも一匹だったはずが群を成してなだれ込んできた!!
哀れ、ここにも魔物の餌食となった娘が一人…
と思った次の瞬間
「フゴ!!」
先頭にいたヤツが、倒れた椅子に足をひっかけたらしい。
バランスを崩して顔面からすっ転び、後ろにいた魔物が勢い余ってその巨体に躓き、そのまた後ろも…
遠い東の国にある「将棋倒し」と言う言葉は、こんな時に使われるのだろうと思わせるほど、それは見事に全員がばたばたと倒れてくれた。
「!!」
マーヤの生存本能は絶望を押しのけ、持ち主の意識も無しに勝手に体が動いた。
小山になった魔物にふさがれた入り口に向かって駆け出す。
そして
「てぇぇぃ!!」
一番手前で倒れている魔物の頭を踏んづけると、もがき続ける魔物共の上を飛び越えたのだ!
踏みつけられたサイが怒りの声を上げたが、上に重なっている同僚の重みで身動きが全くとれない。
それは、他の奴らも一緒だった。
団子になってじたばたとあがく敵をもはや振り返ることなく、九死に一生を得たマーヤは、再び廊下を一目散に駆けだした。
絵巻物語では、若い少年少女が強大な魔王やドラゴンと堂々と戦ったりしている。
――が、現実はそんなに甘くは無い。
「ひっ、ひっ……」
寸での所で逃れた死の恐怖のお陰で、とうとうマーヤは泣き出してしまった。
ボロボロと涙が頬を伝う。
戦うなんて気は全く起こらない。
何の目的で今ここにいるのかも忘れ、ただただ寺院の回廊をひた走る。
何度目かの十字路を曲がりもせず、どのくらい突っ走ったのか。
「・・・・・・・・・・っはぁ」
またも喉と肺が悲鳴を上げて、彼女は足を緩めた。
音を立てて酸素を補給する。
足どころか全身がもう鉛のように重い。
肉体の疲労と精神的に追いつめられた影響で、眩暈と吐き気までしてきた。
「帰りたいよぅ…」
べそをかいていると、廊下の角からヒタヒタと遠い足音が聞こえてきた。
「!」
瞬時に口から漏れそうになった嗚咽を飲み下し、あたふたと周囲を見渡す。
恐慌状態に陥っている今のマーヤの頭の中には、敵を倒すとか、透明魔法でも使ってやり過ごすなどと言う考えは浮かびもしない。
ここは廊下のど真ん中。
そして、壁に据え付けられた扉。
少なからず装飾が施してあり、さっきの様な単なる空き部屋ではなさそうだ。
もし、中に敵が潜んでいたら?
鍵がかかっていたら?
そんな事を思っても、現状ではどうしようもない。
いや、実際そんな余裕もない。
迫り来る敵からただ逃げる、それしか考えられず、マーヤは目の前の扉に飛び付いた。
幸運にも、鍵はかかっていなかった。
中に誰がいるか確かめもせず、入ったと同時に素早く静かに扉を閉じ、息を潜めた。
耳を澄ましていると、重い足音が徐々にこちらに近づいてくる。
その感じからして、さっきのサイ兵士だろうか。
扉の前に来た瞬間、マーヤは手にしたロッドを握りしめた。
もしも中に入ってきたら――
(こいつを脳天にお見舞いしてやる!)
魔法はどうした、マーヤ。
が、その覚悟も杞憂に終わった。
足音は止まることなくゆっくりと前を通り過ぎ…そして聞こえなくなった。
(た、助かったぁぁ…)
どっと全身から力が抜け、扉にすがりつく形で、ずるずると膝をついた。
青ざめた顔を伝う滴は、安堵のあまり吹き出した汗なのか、恐怖の涙なのか。
そして、気が付いた。
背後に感じる、チャラチャラという金属音と、人の気配に。
またもどくんと心臓が跳ねた。
振り向けない。
マーヤの背中を、つうっと新たな汗が伝う。
「うふふふ」
あまりにも場違いな笑い声がした。
(…?)
恐る恐る、肩越しに振り向いてみる。
入った時はそれどころじゃなかったから気が付かなかったけれど、室内は煌々と明かりが灯され、据えられた大きなテーブルには光の固まりが乗せられていた。
赤
青
緑
黄金
銀
眩いばかりの貴金属の山。
そんな宝石に囲まれて、これまた見事なドレスをまとう若い娘が立っていた。
その体には今まで手にしたこともないきらびやかな宝石が細い首筋と言わず腕と言わずぶら下がっており、娘はそれを愛おしそうに撫でさすっている。
エスティアが見たら、文字通り目の色を変えて飛び付くだろう。
マーヤだって金目のモノは好きだが、自分の命がかかってる今の状況では宝石に目が眩むことなど出来ない。
それよりも――
(な、何?コイツ……)
年の頃は、自分と同じくらい。
尻尾もなければ武器も持っている様子もなく、殺気も感じられない。
人間…?
だが、ここは魔物がひしめく寺院のど真ん中。
そんなところで、普通の人間がこんな豪奢なドレスや宝石を与えられて喜んでいるだろうか。
当の彼女は部屋に入ってきたマーヤに気付いていないのか、着飾った自分を傍らにある姿見で眺めては、うっとりと陶酔中のご様子。
…まさか。
はたとマーヤは気が付いた。
――寺院の中にいる、若い娘。
もしかして、コイツが…ボナスの……
「あ…の……?」
おずおずと呼びかけても、彼女は気付かない。
「ふふっ、キレイキレイ~♪」
「おーい…」
「でも、紫の方がいいかしら…」
「ねぇってば……」
「ううん、迷っちゃうなぁ」
「………」
捨てて行こう。
迷わず 踵を返しかけたが、とりあえずもう一度だけ呼びかけてみる事にする。
「エリナさんって、もしかして、あんた?」
「あら、なぁに?」
ようやく反応が返ってきて、娘はくるりとこちらを振り向いた。
その胸元で、蒼いペンダントが一際きらりと輝く。
どうして、この名前に反応してしまったのだ。
こいつがボナスの娘だとしたら、助けなければいけないじゃないか。
「せっかくだけどぉ、宝石はもういいわ。ドレスも間に合ってるのよ」
エリナと言う名に応えた娘は屈託無く笑いながら、マーヤに向かってひらひらと手を振った。
「………」
やっぱり捨てていっていい?
「やっぱりぃ、あっちのイヤリングの方がいい感じぃ」
そんなマーヤの葛藤も知らず、娘はまたも自分の世界へ戻っていこうとする。
「だー!いつまでも自分に浸ってんじゃなーい!!」
ずんずんと娘に近寄ると、むんずとその腕を掴んだ。
「きゃあっ!何よぉ」
宝石選びの邪魔をされて頬を膨らませたエリナを無視し、そのままずかずかと扉へと向かう。
「ほら、行くよ!」
「えぇぇ~」
エリナという娘のこの虚ろな目――きっと、魔物に何か術でもかけられてるんだろうけど…
これが元々の性格だったらとぉおおおってもイヤだ。
あのボナスの溺愛ぶりを思い出すと、どうも笑えない。
「いやん、行くってどこへ?」
「家よ家!あんたのおうち!」
いやいやする娘を引きずりつつ、マーヤも頭を抱えていた。
(こんな娘を抱えて、あんな魔物だらけの中を、どーやって抜けりゃいーの……)
元々ボナスの娘を助けに来たのだから、ここでコイツを置いて逃げ帰るわけには行かないが、そんで自分までとっつかまっては元も子もない。
魔物退治は二の次として、とりあえず、この娘だけでも取り返せばボナスへの面目も立つってもんだけど、でも、そうなるとお師匠様の復活は――
うーん、うーん……
「ねぇねぇ、どぉしたのぉ?」
考え込むマーヤの背中を、つんつんとエリナがつつく。
(…や、やっぱりコイツ捨てていきたいっ!)
タダでさえヒートしていた血管を逆なでされて、エリナを怒鳴りつけとうとしたとき
「…おや、お客人が二人になっているようですね」
低い声がそれを遮り、エリナの背後、部屋の隅にゆらりと黒い陽炎が立ち上った。
「なっ!」
飛び上がるほど仰天しつつも、とっさにエリナを自分の後ろにかばい、身構える。
すらりと細い人影が、音もなく部屋の中に姿を現した。
実体ではない、影だ。
細部まではよく分からないけれど、それでもこの容姿には見覚えがあった。
黒い肌、ひゅんと尖った耳、銀の髪、そして、影なのにこんな優美な姿――
それは解説不要な、有名すぎる種族。
以前、修行場でお師匠様に教わった通りの姿の魔物
――ダークエルフ、だ。
(うっそっ……)
マーヤの青い瞳は限界まで見開かれ、血の気が、ざぁーっと音を立てて引いていく。
滅多にお目にかかることのないはずの、高等魔族!
何でそんなヤツが…!!
(やっばぁぁ!もっとちゃんと弱点とか勉強しておくんだったぁぁ…!!)
後悔ってのは、後からするものだから後悔ってゆうんだよね。納得。
そんな事を今考えても仕方がないが、人間、追いつめられた時ほど、しょうもないことばかりが頭を巡るモノ。
え?そうでもない?
それは失礼。
さて、マーヤは再び選択を迫られてしまった。
背後の扉から逃げ出すわけにはいかない。
こんな状況で背を見せるほど、マーヤもおまぬけではない。
話しが通じる相手とも思えない。
では、どうする?
(こ、こーゆーときは…)
ろくに目標も定めず、さっとロッドを振り上げた。
(不意打ちしかないでしょ!!)
「火炎魔法!!」
凄まじい爆音と共に、マーヤ達の前に炎の壁が生まれた!
その熱気に煽られ、ダークエルフの影もかき消えた。
「今の内っ!逃げるよ!!」
「えっ、なになに?どしたの?いきなり火が…」
「いーからとっとと歩かんかい!!」
扉のノブを掴もうとした、まさにその瞬間。
「えっ…?!」
確かにマーヤが入ってきた筈の扉は、彼女の目の前ですーっとかき消えた。
「ちょ、ちょっと、どゆ事?!」
ぺたぺた触ってみても、そこにあるのは、ただの石の壁。
「――やれやれ、乱暴な女だな」
面白くもなさそうな、ぼそりとした呟きが炎の中から聞こえた。
「げぇっ!まだいたの?!」
振り向くと、炎の壁の向こうに、先程と同じ揺らめく細い影が見えた。
…いや、今度は違う。
さっきはあくまで朧な影に過ぎなかった姿が、今度は徐々に実体を伴い始めている。
「ひっ…!」
本体が来る――!
影でも恐ろしいのに、本物のダークエルフなんぞと真っ正面から戦えるわけがない!!
「に、逃げなきゃ!!」
慌てて出口を探すが、入ってきた入り口はもうない。
壁を両手でばんばんと叩いても、それはまやかしでもない、本物の壁だった。
「ど、どど…どうしよっ…!!」
逃げ道は?
ああっ!透明魔法を使えば、敵の目をくらませられるかも?!
思いついた瞬間はナイスアイデアと思ったが、即座にその案はうち消す。
あの魔法は自分一人だけしかかけられない。
エリナを助けなければ、わざわざこんな怖い思いをして来た意味が無くなってしまう。
逃げ道はないし、隠れる場所もない。
そして今、敵はゆるやかに、でも確実に姿を現しつつある。
これは、この寺院に来てから最大のピンチってやつ?!
「ねーねー、なにやってんのぉー?」
マーヤの心中も知らず、エリナはマーヤの横でにこにこと無邪気に笑っている。
「今、わたしはいそがしーのっ!あんたはこの部屋の出口知ってるとかどんでん返しのアイテムとか、何かないの?!」
「えぇ~?あなたも宝石欲しいの?でも、この火で焼けちゃったわよぅ」
――聞くだけ無駄だった。
がくりと脱力したマーヤの耳に、低い詠唱の声が聞こえてきた。
慌てて顔を上げると、炎の壁は既に消え、黒い陽炎だった影は確かな実体を供えて人間二人の前に降臨していた。
「……」
エルフと言うのは、見惚れるような美形だと聞いている。
それが、闇に属するダークエルフとても。
が、マーヤは今回その話を確かめる事が出来なかった。
何故なら――炎が消えた部屋は薄暗く、部屋の隅に佇む敵の輪郭しか見えなかったから。
が、それでもその口元から呪文の詠唱が流れているのは分かった。
「…そして命ず。我に仇成すものを、凍らせよ」
「!」
反射的にマーヤがロッドを相手に向けてかざすのと、敵が呪文を唱え終わったのはほぼ同時。
白い光が身を切り刻む凍気を伴い、マーヤとエリナに向かって迸った!!