卒業式に相応しく、桜が舞っていた。
今年は例年より気候が暖かい日が続いたせいか、まだ3月の始めだというのに、満開の桜で校庭も中庭も鮮やかに彩られている。
長い校長や来賓のお言葉、卒業証書授与、校歌斉唱。
この一日の為だけに、何度練習させられたことか。
式の終了後、別に別れを惜しむ友が居るわけでもなく、恩師が居るわけでもなく、僕はさっさと帰るつもりだった。
無為な時間を過ごした学校なんて未練はない。
…無いはずだった。
最後のHRが終わり、最後の会話を楽しんでいるクラスメート達を残して、僕の足は昇降口ではなく、屋上への階段に向かっていた。
僕が一番思い出に残っている場所は、ここだったようだ。
以前は一人になりたくてここに来て、ある時を境に、一人になりたくなくて通った場所。
相変わらず重い扉を押して、屋上に出た。
暗い入り口から、一気に明るい陽の元に出て、目が眩む。
手で目を覆って、その隙間から屋上を見渡した。
「え…?」
昔見た光景がそこにあった。
屋上の柵に、女生徒が危なげなく腰掛けて足をぶらぶらしている。
風で髪が舞い上げられ顔を時折隠しているが、綺麗に切りそろえた黒い髪には見覚えがあった。
忘れるはずが、ない。
「斉藤?」
瞬きして目を開けると、そこには誰もいなかった。
慌てて、今まで女生徒が座っていた柵に駆け寄った。
そこには、誰がいた痕跡もない。
柵に触れても、鉄の冷たさだけが伝わるだけだ。
「錯覚か…」
情けなくて笑ってしまった。
彼女とは、暗い教室で出会ったのが最後になってしまった。
いや、あれも、本当は現実ではなかったのかもしれない。
気が付くと、僕は暗い教室の床の上で、眼鏡を握りしめたまま伸びていた。
斉藤も、誰もいなくて。
だけど、意識を取り戻したときの額の痛みが、あれは現実だったのだと僕に信じさせている。
もうタンコブは消えたけど。
口から漏れる笑いは止まらない。
そのまま、嗚咽に変わった。
何だったんだよ、あれは。
斉藤、お前は…
顔を上げて、目の前に広がる景色を見てみる。
初めて会ったとき、斉藤が見ていたと同じであろう景色を。
相変わらず、ごみごみとした町並みやビルが見えるだけ。
ふと下の方に視線を落とすと、校庭が見渡せた。
周囲に植えられた桜並木が満開の花を咲かせ、綺麗だった。
暖かい日差しと温もりのある風が心地よかった。
強い風が桜の木を揺らし、花びらの何枚かを屋上までも舞い上げてきて、小さな桜色の花びらが頬に触れる。
眼下では卒業生が後輩達と校庭の隅で別れを惜しんだりしている。
勿論、僕には縁のないものだけど。
「あ…?」
その生徒達からはずれたところに、一人の生徒が佇んでいた。
思わず、僕はメガネをかけ直した。
「斉藤!」
今度は、瞬きしても、目を擦っても消えなかった。
校庭の桜並木の入り口から、僕の方をじっと見ている。
卒業証書が入った筒も記念品も放り出して、僕は階段を駆け下りた。
上履きのまま、校庭に飛び出す。
急がないと彼女が消えてしまうという想いに駆られて、周囲の目も気にせず彼女を捜した。
屋上から見つけた場所に、斉藤は相変わらず立っていた。
「斉藤!」
僕が呼ぶと、彼女はにこりと笑った。
暗い教室で見せられた、禍々しい笑顔とは無縁の明るさ。
駆け寄った僕に微笑むと、一言、
「教室」
と呟いて…消えた。
「え?」
文字通り消えたのだ。
すーっと、舞い散る桜吹雪の中に溶け込むように。
校舎を振り仰ぐと、僕の教室の窓辺に、斉藤がいて、こちらに手を振っている。
「なんなんだよ…」
僕は、狐につままれた感じで、しばらく動けなかった。
「お久しぶり」
この前と同じく、窓を背にして彼女は屈託無く微笑んで見せた。
違うのは、明るい笑顔と、明るい教室。
大きく開け放たれた窓からは、心地よい風とそれに吹かれた桜の花びらが何枚か教室の中に舞い込んできた。
卒業生が出払った教室内は、不思議な寂しさと明るさを出している。
「本物…だよな?」
「え?」
僕の言葉に、彼女は眉をひそめた。
「お前は、誰なんだ?」
斉藤の顔が哀しげに曇った。
学年名簿に載っていないこと、校舎内でも見かけないこと、そして、この前の出来事を糾弾されると、斉藤は顔を伏せた。
「あれは、夢だったのか?一体、何だったんだよ!」
ようやく会えたという嬉しさを押し隠した反動で思わず語気が荒くなった僕を、斉藤は哀しそうに見て、答えた。
「どちらにしても、もうお別れだもの」
苦しげな斉藤の声を聞いて、僕は胸を突かれた。
「いや、あの、ごめん。でも…僕は…」
ちょっと置いてから、自分でも恥ずかしいことを口に出そうとした。
「きみが…」
斉藤が、顔を上げた。
泣き笑いの様な表情だった。
「あいつらは何も分かってなかったくせに」
窓から春の風が入ってきて、ふわりと斉藤の髪を舞い上げた。
まぶしい日差しは、綺麗な黒髪をいっそう艶やかに照らす。
こ汚いはずの教室のカーテンも陽を受けて、天女の衣のようにきらきらと光りながら、時折吹く風に身をまかせて斉藤の前で舞っている。
最初に会ったときも、こんな感じのいい天気だったな。
何故だか、鮮明に初対面の出会いを思い出した。
と、斉藤の姿がふぅっと薄くなった。
僕の目が限界まで見開かれた。
半透明になった斉藤の姿の向こうに、窓の外の青空が透けて見える。
「ほら」
斉藤の手が、窓ガラスにかかり…そのまま突き抜けた。
死ンデイル奴
この前聞いた嗄れ声が、再び耳元で聞こえた気がした。
透けている体。
最初に会ったとき、屋上の柵の上に軽々と座ってた理由。
柵から転落して死んだらどうするのかと問いつめた僕を大笑いした訳。
笑顔も、雰囲気も、十分生気に溢れているが、間違いなく彼女は…
「私はこの学校の生徒よ。それは嘘じゃない」
斉藤は最初に会ったときと同じ、寂しげな笑いを見せた。
僕は、バカみたいに開けた口を閉じることさえ忘れていた。
そういえば以前、誰かが話してるのを聞いたことがあったっけ。
昔、この学校でまるで神隠しの如く行方不明になった女生徒がいるって…。
不思議と、斉藤を見つめる僕の心には恐怖は沸いてこなかった。
それよりも、もっと別の感情が僕の心臓を握りつぶそうとしている。
「でもね。私は卒業式に出ることは出来ないの。ずっと…」
斉藤の目が、教室の天井を見上げた。
「本当はもっと未来が欲しかった」
そこにあるのは染みが浮かんだ、汚いコンクリート。
でも、今その遠い目に映るのは、彼女が生きていた時代。
「卒業して、進学して、就職して…」
最後の一言と同時に涙が斉藤の頬を濡らした。
「結婚して…」
声が震えた。
二度と叶わない、どんなに望んでも得られない願い。
「斉藤…」
思わず手を伸ばした僕の手を、彼女はするりとかわした。
「あなたは…私の事などすぐ忘れてしまうでしょうね」
窓の外からは、生徒達の賑やかな歓声が絶え間なく聞こえてきて、これは現実の話なんだと僕の意識をつなぎ止めていた。
そのなかで、斉藤の声だけが夢の中のように響く。
「あなたには、未来がある。たとえ平凡な毎日であろうと」
彼女の姿が、じわじわと周囲の景色に溶け込んでいく。
「お、おい!待てよ」
手を掴もうとした僕の手は、すかっと通り抜けた。
向こうの景色が透けて見えるほど、斉藤の景色は透明になりつつあった。
僕が口を挟む間もなく、斉藤は最後まで笑顔で告げた。
「さよなら」
ふわりと窓のカーテンが風に揺れて、後には誰もいなかった。
僕以外、誰も。
声に出すこともなく、斉藤美加はそっと口の中で呟いた。
学校を何となく嫌うところも、姿も、話し方も、笑い方も…
「わたしが好きだった人に、そっくりだったから……」