春。
冷たく厳しかった北風は、暖かく心地よい空気を運んでくる。
固く閉ざされていた桜のつぼみも緩み、殺風景だった校庭や校舎を淡いピンク色に包み込んでいた。
満開の桜の枝振りと、時折強い春風に揺られてはらはらと散る桜の花びらの美しさに、校門から体育館に向かう来賓や卒業生の親が感嘆の声を上げる。

普段は学校関係者しか入らない体育館に、部外者が続々と吸い込まれていく。
今日は特別な日。
卒業式だ。

『蛍の光』の歌声が校庭の端にまでかすかに響いてくる。
校庭の桜の木の一本に寄りかかっていた北水絵梨は、閉じていた瞼を開いて体育館の方を眺めた。

(そういえば、わたしも昔、卒業式の練習なんてものやってたわね…)

結局、彼女は送る方としてしか卒業式に参加することは出来なかったけれど。
ぼんやりと体育館の方を見つめた後、ぶんぶんと頭を振った。
この日は、どうしても感傷的になってしまっていけない。
絵梨は、今は側にいない親友のことを考えた。
斉藤美加は、ちょっと考え事をしたいからと言って屋上に行った。
最近、美加の様子もおかしかった。
絵梨と同じように、この時期は感情が不安定になるものだが、それに加えて、好きな人ができたっぽい。
いいなぁ、と絵梨は思った。
死んでからも、恋が出来るなんて。
美加のお相手は、ちらりと覗いてみたが、どこかで見たような感じだった。
すぐには思い出せなかったけど、ようやく分かった。
生きていたとき、美加が片思いしていた同級生に何となく似ていたのだ。
さばさばした性格で、他の人の恋愛相談の話もよく聞いてあげていた割には、自分の事に関してはもの凄く奥手な美加のことを、絵梨はおかしさ半分、歯がゆい半分で見ていたものだった。
結局進展せぬまま、二人は今の状態になる運命を辿ってしまったわけだが。
憧れの彼はとっくに卒業し、今は子持ちになって幸せな家庭を築いているのかもしれない。
そういう絵梨自身は、あまり恋愛だのに縁が無かった。
憧れた先輩もいたにはいたが、あれは恋なんてレベルではなかったし。

いつの間にか、体育館の入り口が開いて、中にいた人間を吐き出し始めた。
これから校庭やら校舎は、別れを惜しむ生徒達で騒々しくなるだろう。
絵梨は桜並木の奥へ足を向けた。
桜の花は好きだった。
空を振り仰ぐと、抜けるような青空に、薄桃色の桜の花びらが雪のように舞って、とても幻想的な雰囲気を醸し出す。
しばらくの間、絵梨は桜吹雪の中に立ちつくしていた。
爽やかな春風が、桜の枝と絵梨の長めの髪を揺らす。
顔にかかる自分の髪を、特段煩わしそうでもなげに掻き上げた。

飽きもせず舞い散る桜を眺めている内、ふっと、昔の事を思い出した。
桜にまつわる、七不思議…

「桜の木の下には、死体が眠ってるのよ」sakura

ふいに声がして、絵梨はそれが自分に掛けられたものと気付くまでちょっと時間がかかった。
いつから居たのか、女生徒が桜の下で、絵梨と同じように静かに佇んでいた。
両手は手ぶら。
卒業生なら持っているはずの筒を持っていないという事は在校生だろうか。
穏やかな微笑みを浮かべて、女生徒は言葉を続けた。
「綺麗な桜でしょう?」
そうね、と絵梨も笑って答えた。
「まだ3月の始めなのに、狂い咲き…」
大分奥に来たらしい。
前も後ろも、見えるのは満開の桜だけで、校舎も他の人影も見えない。
「桜は散るときが一番綺麗なの」
女生徒が桜を見上げた。
それを追って、絵梨も桜の木に視線をやる。
「そう…人の命と同じ」
ざあっと桜の木が一斉に揺れて、花びらが吹雪のように絵梨と女生徒に降りかかる。
それでも二人とも動かなかった。
風が絵梨の髪とセーラー服の襟を舞い上げ、桜の花びらを吹き付けてくるが、絵梨は気にせず、女生徒に視線を戻した。

「…この桜の木の下には、何人の生徒が埋まっているのかしら?」
女生徒は微笑んだまま絵梨と視線を合わせた。
もう、校庭の喧噪は聞こえてこない。
桜の木が風で揺られるざあざあという音と、二人の女生徒の声だけが今の音の全てだ。

「さあ。皆、この桜に魅せられるもの」

女生徒の声と共に、桜吹雪が徐々に激しくなってきた。
薄桃色の花びらが、まるで生き物の様に絵梨にまとわりついてくる。
視界を遮られ、女生徒の表情がよく見えなくなる。
だけど、絵梨には分かった。
笑っている。
唇の両端をつり上げて。
そして、桜の散る音に紛れて、女生徒の声が絵梨の耳にかろうじて届いた。

そして、あなたも

桜の花びらが絵梨の全身を覆い尽くし…しばらく女生徒は満足げな笑みを浮かべてそれを見守っていたが、それはやがて驚きの表情に変わった。
風がおさまり、花びらが晴れたとき、絵梨は変わらすそこに平然と立っていたのだから。
信じられないものでも見たかのように立ちつくす女生徒を見やって、絵梨は口を開いた。

「あなたは、私を覚えていないかしら?」

七不思議の一つ。
校庭の桜並木の下には、死体が埋まっている。
だから毎年鮮やかに花を咲かせることが出来るのだ。
満開の桜の木の下に立っていると、魅入られて桜の木に食われてしまう。
毎年、春先に必ず生徒の誰かが行方不明になるのは、桜に魅せられてしまったからだ……

ウワサを聞きつけた絵梨と美加は、よくこの桜並木にやってきていた。
ただ、その情報を得たのがもう桜の季節が終わった後だったので、自分たちが卒業するときに必ず確かめようねと言っていたっけ。

訝しげに絵梨の顔を見ていた女生徒の顔が、あっという感じで変化した。
確かに、この人は見かけた事があった。
でも…それはもう、すっと前の事。
彼女の頭は混乱した。
自分以外に…まさか……

「分からなかった?私はあなたと同じよ」

あなたは『桜』に、わたしは『学校』に捕らわれて―――

女生徒はしばらく呆けたような表情のまま動かなかったが、くしゃっと表情を崩した。
「そう…なの」
私だけじゃ、なかったのね……
「私がここにいるのは自分の意志。この桜と共に、私はいる。…だけど、あなたは?」

あなたは、いつまで、いるの………?

何度となく自問したかしれない問いに、絵梨は微笑で応えた。

「……さあ」

もう一度、風が辺りを吹き抜けて桜の花びらを雪のように舞い散らした。
その風に乗って、遠くで絵梨を呼ぶ親友の声が聞こえる。

「この『学校』が無くなるときまで…かしら」