毎年、夏になると囁かれる怪談話の一つ。
夜の校舎をね、時々軍靴の音が響くんだって。
それは昔ここで死んだ兵隊さんで、まだ成仏できずに、ずっと彷徨い続けてるって――
その学校を訪れたのは、夏の暑さもとうに過ぎて、秋の風が色褪せた木の枝を揺らす様になった頃だった。
きっかけは、友達の文化祭。
中学の時一緒だった、そして今は別の高校に行った友達からの招待で、私はその高校を訪れただけ。
なのに――
その女生徒は、色とりどりの紙で作られた花や鎖でごてごてと飾られた校門の側の木に寄りかかりながら、外から入っては出て行く来校者を眺めていた。
他の生徒のようにやかましく呼び込みをするわけでもなく、ただ静かにそこに佇んでいて。
微かな冷たさを含んだ風が、彼女の長い髪を落ち葉と共にふわりと舞上げる。
何故だか、それはとても絵になる光景で、私は思わずじっと見入ってしまった。
その視線に気づいたのだろう、彼女はふっとこちらに顔を向けた。
白いヘアバンドのお陰で前髪は彼女の視線を隠すことなく、私の目と真正面からぶつかった。
「・・・・・・・・・・・・」
彼女は何も言わず、目をそらさず、怪訝げにこちらを見ている。
いけない、変に思われたかも知れない。
「あっ、あの、すみません!1年D組の教室ってどこですか?」
私はその場を取り繕うために、とっさに友人のクラスを出した。
本当は知っているけれど。 本校舎の2階だって。
だけど、私の言葉を聞いて彼女はますます怪訝な顔をし、もっと怪訝な言葉を返してきた。
「…私が見えるの?」
今度は私がきょとんとする番だった。
この人は何を言ってるんだろう?
だけど、その疑問を私が口にする前に、彼女はくるりと背を向け校舎に吸い込まれる人の波の中へと走り去ってしまった。
「……?」
なに、あれ?
私、そんな変な事言った?
「あっ、いたいたっ!おっそいじゃん。教室分かんなかったの?」
ぽんと後ろから肩を叩かれ、私は我に返った。
見覚えのある、元同級生が制服姿で笑っていた。
一瞬今の女生徒の事を訪ねようとしたけれど、無意味と思って止めた。
「ひっさしぶりじゃん、元気だった?」
「そっちこそ、この高校はどう?」
卒業から約半年ぶりの邂逅を、私達は喜び合った。
それにしても、随分変わったなぁ。
束ねていた長かった髪は、今や金に近い茶髪のベリーショートになって、アイメイクまでしちゃって。
「ほら見てよ、このダサいセーラー。今時、こんな制服なんてここくらいだって」
そう言って、彼女は胸元のスカーフをひらひらと振って見せた。
「中学はブレザーだったから、高校はセーラーがいいって、あんたいつも言ってたじゃーん」
その後もバカな会話で盛り上がり、そして、あの女生徒のことは頭の隅へと押しやられ、やがて消えていった……
夜の校舎に棲み潜むのは、なにも学校関係者に限らない。
勿論、自殺や突然の事故で死んでも死にきれずに彷徨う生徒の霊が圧倒的に多いけれど、今の校舎が建てられる前からその地を縄張りとしていた大御所の自縛霊だっていたりするわけで。
それが、彼だった。
凛々しい軍服姿の、若い男。
この校舎が建つ土地の歴史を紐解けば、戦時中ここが陸軍飛行隊の離着陸場だった事が分かるだろう。
彼は、そこに所属していたパイロットだった。
果たして自分が何者なのかも最早朧気になってきており、ただ、運命の日、この地から飛び立った事だけが今の保てる記憶の全てだった。
軍施設が取り壊され、学校が建てられても、彼の魂はここに留まり続けていた。
時代のうつろいをぼんやりと眺め、ただただ、見守るだけ。
現世への未練も生者への嫉妬も無く、ただ淡々と。
だから、誰もその存在に気付かなかった。
生きている者は。
その彼が、初めて口を開いた。
膝を抱えうずくまる姿しか見せてこなかった彼が、過去何度か目にした事のある、そして今目の前を通りかかった制服姿の女生徒を呼び止め、言った。
「…あの娘と、会わせてくれないか」
「――文化祭に来た外来者なんて、どうしようもないじゃないのよぉ」
斉藤美加は、心底困った顔でため息をついた。
以前から、北校舎ではお馴染みだった軍人さん。
こちらから何度話しかけても、まるで石のようにびくとも動かなかった彼が、今や夜毎軍靴を響かせて校舎を落ち着き無く彷徨い続ける有様だ。
先の昼間に行われた、華やかな宴。
その客の中に、確かに彼は懐かしい香りを嗅いだ。
その香りを放つ若い娘を見たときに、彼はもはや無いはずの肉体が鼓動を早めるのを感じた。
ああ、自分は誰だったろう。
その香りの持ち主は、自分が誰かを教えてくれるかもしれない。
最早同期の戦友もおらず、思えば自分だけが何故ここに取り残されなければならぬのか。
自分には何か心残りがあったからに違いない。
それさえ解ければ、きっと自分も、戦友達の元へ逝ける。
そんな事を、朴訥に語られ、美加としても何とかしてやりたいなとは思った。
――が、
「手がかりは香りだけって…どーしよーもないじゃないのよー!」
だいたい、香りの元すら分らない。
体臭か、コロンか、女の子が時々鞄に偲ばせてたりするポプリだろうか…
生徒では無いことだけは確かだ。
それであれば、もっと前に気づいているはず。
なら、この前開かれた文化祭に訪れた父兄や外来者達か。
「文化祭と言えばさ、1-Dよりも2-Aのお化け屋敷の方が断然出来よかったと思わない?」
「そうね。だって、テーマが『三番目の花子さん』だもの」
「でもさぁ、あのお化けの中に、実は本物の『花子さん』が混ざってたって知ったら、お化け役の生徒も絶対気絶するわよー」
「うん。花子さん、ああいうお茶目大好きだものね」
「誰も死なずに行方不明者すら出なかったのは奇跡よねー」
美加との会話に頷きを返した後、
「文化祭の日で思い出したわ…」
ふと絵梨が切り出した。
「あの日、『見えない』はずの私を見た人がいたのよね。私達くらいの女の子で、私服来てたから他校生だと思うけど」
「へぇ」
それを聞き、美加もやっぱり驚いた顔をした。
「霊能力って、本当にある人はあるのね」
「『わたし霊感あるの』って人は大抵無いよねー」
それから話題は、過去の自称霊能力者についての笑い話へと移っていき、絵梨と遭遇したと言う少女の話は流れていった。
「―― はぁ」
今夜は寒さが一段と身に染みるなぁ。
夜気に溶けていく真っ白な息を眺めつつ、私はまた新たなため息をついた。
塾からの帰り道。
まだ所々灯りのついた商店街の大通りを、とぼとぼと一人歩いていく。
帰って来た模試の結果は散々だった。
もうすぐ期末テストが始まるのに…。
ああやだやだ。勉強なんて大嫌い。
早く冬休みになってよ。
「あれー?……じゃない?」
素っ頓狂な、それでいて聞き覚えのある声で突然名前を呼ばれ、私はびっくりして振り向いた。
「あれ?」
私も同じ言葉を漏らし、相手を眺めた。
秋に文化祭に招待してくれた友達が、今日は真っ赤なダッフルコート姿で現れた。
「こんな時間に、どこ行くの?」
「塾の帰りよ。ミヤこそ、どうしたの?」
「じゃ、今は空いてるのね!」
私の問いに答えず、答えだけを聞いて彼女は何故か天の助けとばかりに喜んだ。
「あのさ、今からちょっと付き合ってくれない?」
「え…?」
唐突な申し出に、私は驚いた。
思わずコートのポケットから携帯電話を取り出して時間を確認する。
20:08
そう言えば今日はテスト返しだったから、早めに終わったんだ。
いつもなら授業が終わるのは夜の9時を回る。
それはお母さんも知ってるし、この時間なら寄り道しても、わざわざ家に電話する事、ないよね。
「いいよ。でも、どこへ?」
彼女から詳しい話を聞く前に、私は頷いてしまった。
そして、それを数分後には後悔する事になる。