ここは、泣く子も引きつるスラム街。
ダウンタウンよりももっと雑多で猥雑な繁華街。
規律と清潔感に溢れるシティの住人は、侮蔑と嫌悪の口調で『ゴミ溜め』と呼ぶ。
元は、シティからあぶれた者達が都会の灯りを恨めしげに眺めやりながら集った辺境だった。
が、そこは今では巨大な街であり、迷路。
廃屋が建ち並び、闇屋が乱立し、溢れる戸籍のない子供達。
その中に逃げ込んだ人間一人二人を探すのは、広大な砂漠のどこかに落としたダイヤを見つけだすことより困難な仕事だ。
だからこそ、犯罪から、借金から、その他諸々から逃げ出すために、人はこのゴミ溜めにやってくる。
この通りですれ違う9割9分の人間は、何かしら後ろめたい過去、罪、追っ手を抱えた者と思ってほぼ間違いはない。
かつて、幼き軍の脱走者ダニエルもその中にねぐらを構え、子供ながらに一流の――一流を超えた――情報屋としての地位を築いていたものだ。
勿論シティ側としても、そんな無法地帯に年に何回かは『手入れ』と称して警察部隊を派遣したりもするが、それも表面上だけの事。
世の中、綺麗事だけでは回らない。
シティでは不可能な事も、ここでなら何も問題は無いから。
かくて、スラムは今夜もこの都市の闇を匿いつつ繁栄を続けていくのだ。

その裏道に、ぽつんと置かれている薄汚いドリンクの自動販売機。
ジャンパーのポケットからいくつかの小銭を無造作に掴み出し、いつメンテナンスされたのかすら分からないその自販機に投入する。
点滅するパネルの中から、ダニエルは無難なミネラルウォーターを選んで押した。
がたんと音を立てて取り出し口に出てきた、片手サイズのペットボトル二つを取り出し、
「ほらよ」
一つをシリアに向けて放り投げた。
汗一つ浮かべない平静な顔で、無言のまま受け取る彼女。
かたや、ダニエルは汗だく、半分死にかけた顔で、大人が酒を呷るかの様にぐいと冷えたボトルを傾けた。
無理もない。身体一つで8階から飛び降りる体験なんて、滅多に出来るものじゃないから。
シリアと出会った日、いきなり銃を持った大勢の兵士に囲まれた時も怖かったが、風が凄まじい勢いで頬を切り重力に引き寄せられるあの感覚は、当分忘れられそうになかった。
そして、その身を挺して彼を飛び降りる衝撃から護ったシリアはと言えば、何事も無かったかの様に涼しい顔のままミネラルウォーターのボトルを手の中で弄んでいる。
飛び出したホテルからこのスラムまで、彼女はダニエルを小脇に抱えたまま駆け続けたのだ。
巧妙に通行人や街中に配置されている監視カメラの目を避けられるルートを、正に動物的な直感で探りながら。
だから、追っ手の奴らが情報網を手繰ったところで、スラムに逃げ込んだであろうところまでしか彼女たちの痕跡は手繰れないはずだ。
まぁ、追われる者が逃げ込むところと言ったら、やはりこの場所が真っ先に目を付けられるのだが。

「さて、どうすっかな」
水の潤いと冷たさが身体に染み渡るにつれ、ダニエルは幾分落ち着きを取り戻した。
飲み終えたボトルを放り投げ見上げた空は、白々と明るくなりつつある。
追っ手の存在は、あまり重要視していなかった。
シティでは大きな顔をして練り歩く正規軍も、スラムでは目障りなただの厄介者でしかない。
そう大っぴらに動けないのが、こちらとしては大助かりだ。
「とりあえず、歩こう」
ぼそりとシリアは言って、すたすたと歩き始めた。
慌てて、ダニエルもその後を追いかける。
確かに、ぼーっと一カ所に落ち着いているのは危険だ。
路地裏とは言え、こうしている今も人通りが皆無な訳ではない。
ほら今だって、ネットドラックでハイになっているジャンキーが一人、ふらふらと傍らを通り抜けた。
それは分かるのだが―――放っておけば本当に彼女はダニエルを置いて行きかねない。
(俺はこーんなに尽くしてるのに、ほんっと可愛くねー女だな!)
心の中で、まるで恋人の尻に敷かれっぱなしの男の様な愚痴を吐いてしまうダニエルだった。
…口に出したところで、シリアが動じるとは、とてもとても思えないが。

裏通りを抜け、雑踏に紛れこむ。
朝早いせいで様々な出店が並び、どう見てもまともには見えない商人と客の交渉があちこちで見られ、なかなか興味深い。
接続するだけでハイになれ、後遺症も残らないのが売りのネットドラッグ、『パープル・ドリーム』の売り場には、まだダニエルにも及ばないほどの幼い子供達が、自動販売機でドリンクを買う感覚で気軽に溜まっている。
その向かいの屋台では、目玉や血管の縫合跡が生々しい内臓達が培養液の満たされたガラスケースの中でゆらゆらと揺れている。
これらは実際の治療に使用したり、変態的なマニアが買っていったりとなかなか人気の品だ。

が、そんな店の影に、やせこけボロをまとった子供達の姿もちらほらと見られる。
彼らは、自分の親が誰かも知らない孤児達だ。
このスラムに孤児院なんて優しいものは無く、自力で生きていけない者はのたれ死ぬか、その身を切り売りされる運命が待つだけだ。
ダニエルは、その運命を甘受しない能力を備えていただけ幸運だったのかもしれない。
だからといって、実験体の身分を与えた軍に感謝の気持ちなど一片たりとも持つ気はないけれど。

「…あれ?」
そんな子供達を見ない様に歩きながら端末をいじっていたダニエルが、眉をひそめた。
ダウンロードしたシリアのデーターを、とりあえず確認したかったのだ。
それに、追っ手の情報も。どうして、あのホテルのあの部屋にいることがあんなに早く割れたのか。
それなのに―――
電源が入らない。
虚しく、カチカチとスイッチを押す音がするだけだ。
「マジかよーっ!高かったのに!!」
すれ違う通行人の胡散臭そうな眼に気づき、慌てて声を抑えつつも、ダニエルは不機嫌さを隠せない。
「貸して」
シリアの細腕が伸びて、掌サイズの端末を受け取る。
その時、ダニエルの腹が抗議の声をさかんに上げだしたこともあり、二人は大通りで営業中のレストランに入った。
「いらっしゃいませ」
巻き上げたブロンドが美しい女性型アンドロイドに、ダニエルはカレーライス、シリアはサンドイッチを注文して、入り口から死角になる席を選んで腰を下ろす。
「お待たせしました」
まだ端末の蓋を開く前に、点々と染みが付いたテーブルクロスの上に先ほどと同じ顔のウェイトレスが料理を二人の前に並べた。
「ちぇーっ、薬臭ぇ合成肉ぅ」
実は食事にはなかなかうるさいダニエルのうんちくも、前に置かれたサンドイッチにも目をくれず、シリアはダニエルの端末を開いてみた。
電源スイッチ―――やはり反応しない。黒い画面は沈黙したままだ。
バッテリー―――ホテルで充電した。一月は余裕で持つはずだ。
片手をパーカーのポケットに突っ込み、現われたシリアの細指には、一本のボロボロの鉄釘がつままれていた。
さっきのジャンク街の道端に落ちていたものを、いつの間にか拾っていたのだろうか。
シリアはそれを、端末の裏を留めてあるネジに差し込んだ。
器用にその釘をドライバー代わりにして裏蓋をはずすと、巡らされた配線が現われた。
人体を素手で砕く事が出来る膂力を秘めているとはとても思えない繊細な指の動きに、しばしダニエルは食欲をそそらないレトルト料理を突っつき回していた手を止めて、見とれた。
電脳師である彼は、確かに電脳界では無敵とさえ言える能力を誇るが、コンピューターのハード面に関しては素人にケが生えた程度しか無い。
かたやシリアは、まるで専門職と思うほど的確に配線を追い、不具合の原因を分析している。
それは軍人としての教育レベルを超え、まるで彼女自身が精密なコンピューターの様で。
彼女の運動能力ばかりに眼を取られてしまうが、強化人間―――強化されたのは、肉体だけではない。

「ICパネルの一つに亀裂が走ってる」
ぼうっとシリアの横顔に見とれていたダニエルは、その声でようやく我に返り、あやうくカレーの染みを膝に作るところだった。
「亀裂?」
見れば、色とりどりの細い配線に半ば埋もれた緑のパネルに、うっすらと3㎜程度の白いヒビが走っている。
通常の人間なら、拡大鏡でも使わなければ、きっと気づかない。
「取り替えなければ無理だ」
「うっわ、買ったばかりだってのに。不良品かよっ!」
顔をしかめたダニエルに向き直り、シリアは軽く首を振った。
「強い衝撃のせいだ」
衝撃、と言う言葉で、ダニエルは思わずシリアを横目で見た。
――8階から飛び降り、着地する―――十分すぎる、衝撃。
あの状況下ではあれ以外、逃れる手は何もなかったから、彼女を非難する気は全くない。
が、抱えられていたダニエルにすら、あれだけの衝撃が来たのだ。
それをもろに受けたシリアの肉体には、どれだけのGがかかったのか―――
ぴんぴんしている彼女を前にして、今更それを心配しても意味のないことだけど。
「パネルさえあれば、シリアには直せるかい?」
「ああ」
無造作にシリアは頷いた。
だが、
「これは、まだ新しい規格だろう。そうそう出回っているとは思えないが」
確かに、何でも揃うスラムの闇市だって、全ての店が充実している訳ではない。
ましてこれは、ダニエルが自分好みにアレンジした端末だ。
まるごとお取り替えするわけにはいかない。
なら―――買った店に行けばいい。
「心当たりはあるさ。ちっと遠いけどな」
「じゃあ行くか」
問答の余地無くあっさり頷いて、さっさと彼女は席を立つ。
ダニエルが慌てて残りの一さじを口に詰め込み、ふと見れば―――シリアの注文した、小さなサンドイッチが盛られた皿は、既にカラになっていた。
(…い、いつの間に)
また、シリアの謎が一つ増えた。

『何でも屋』ロナルドにとって、その日はいつもと何ら変わるところが無いはずだった。
先日ダニエルから貰ったデータのお陰で手に入れたブツはもう全て売り払い、しばらくは地下ライブにでも入り浸って休暇でも…と、ささやかな未来地図を描いている矢先、ドアチャイムが鳴った。

「今、だれもいませーん」

一人ビール缶を傾けつつ事務所兼自宅である室内の中で答えても、チャイムはまだ鳴り続ける。
今は誰だろうと相手をする気分にはなれない。
「だぁれもいませぇーん。ロナルドさんはお留守でぃす」
それなのに、しつこくチャイムは鳴り続け、浮かれ気分もだんだんと凹まされて来る。
強く舌打ちすると、空になった缶を壁に向かってぶん投げ、ロナルドは荒々しくソファから立ち上がった。
もう寿命間近いスプリングが上げる悲鳴も耳入る事無く、彼はインターフォンではなく、直接ドアに向かった。
その間にも止む気配のないチャイムの嵐は、ますますロナルドの神経を逆なでする。
片手を腰のハンドガンにかけつつ、もう片手を彼はドアノブにかけ、力を込めた。

「いねーっつってんだろーがよ!ふざけやがっ…」

罵声は、途中で霧散した。
だって、

「あ……?」

shilia5

「お前は…」

目の前には怪訝そうな表情を浮かべ呟く、女神がいたから。
「あ、貴方はっ、あ、あいつのとこにいた…っ!!」
不機嫌も酔いも、瞬時に吹っ飛んだ。
ラフなパーカー姿で彼の前に立つ少女に、湯上がり姿がぱぁっと重なり、全身が熱くなる。
実は彼は、おつむの弱そうなノリの軽いバカ女より、こういうクールビューティにとても弱い。
得てして世の中にそんな女は数少ないが、その内の一人が、今、ここにいる。
なので、

「…おーい、いつまで俺を無視する気だよ馬鹿ロナルド!!」

軽く膝の横を蹴られた感触に、彼はようやく呪縛から解け、彼女の顔から視線を下げて、そこにいる不機嫌な顔をしたチビを認識する事が出来た。

「…あ?ダニエル……?お前、何でここにいるわけ?」

見当はずれの第一声に、ダニエルはもう突っ込む気も無かった。

立ち話も何だからと、気味が悪いくらい愛想のいいロナルドに招かれ、シリアとダニエルは室内へと足を踏み入れた。
雑居ビルの3階の角部屋。勿論、看板なんて無い。
「汚くてすんませんが、勘弁して下さい」
さっきまでロナルドが座っていたソファに案内されたが、辺りにはガラクタとしか見えない物体やスクラップが所狭しと積まれ、これだけでジャンクショップの2・3軒は軽く開けそうだった。
床に転がっているビール缶すら、何かの機械部品に見えてしまいかねない。
ダニエルはもう見慣れているが、シリアは警戒の眼を辺りに配る事を怠らない。
いくらダニエルの知り合いといえど、敵にならないとは言い切れないのだ。
監視カメラやマイクの類がこのスクラップの中に隠されて無いなんてどうして信じられる?
そんな眼差しを、ロナルドはちらちらと盗み見ながら目の保養中。
ダニエル一人が、ずきずきと頭痛がしそうだった。
「ええと、何か飲みます?」
ダニエルの背中に、ぞわっと鳥肌が立った。
こいつの店で、初めて聞いた言葉だ。
無論、それはダニエルにではなく、連れの方に向けられた言葉だが。
ロナルドの好みは知っていたし、この前の初対面の時の様子と言い、それを武器に出来ればと思って来たのだが、どうやら効き過ぎたっぽい。
女よりも商売、金至上主義なはずのロナルドが、今や目前の少女しか目に入っていない。
彼の所に来るのは、実は一抹の危惧がダニエルにはあった。
既に軍籍を抹消し、軍の記録からは消去されている彼だが、シリアと一緒にいるところを追っ手に見られている。
彼女を追う者は、きっと今頃は血眼になって彼の素性も洗おうとしているに違いない。
交友関係を調べる内に、ロナルドに接触があったかも知れないのだ。
自分はともかく、シリアの事を知ったら、甘い餌に釣られてにこの若き商売人の目が眩んでもおかしくはない。
そう警戒していたのだが――
幸いと言うか、この様子ならその線は消しても良さそうだ。
こんな気持ち悪い下手くそな芝居を続けられるほど、ロナルドは器用な奴では無い。

「で、いー加減俺たちが来た用件訊かないのかよ?」
放っておけば、いつまでもシリアから目を離さないだろうロナルドに、ダニエルは切り出した。
「……んあ?」
若輩ながらもフリーで暗黒街での商売をしている者にしては、あまりに間抜けな返答に、ダニエルは手に持っていたベレー帽を投げつけてやりたくなった。
(こいつ、キャラ変わった絶対)
「ビジネスだよビジネス!!俺たちは買い物に来たのっ!!」
ダニエルは、ジャケットのポケットから例の端末を取り出し、煙草の焼けこげだらけのテーブルの上に投げ出した。
「これ、覚えてるだろ?」
商売の話になって、ようやくロナルドも商人の意識へと戻ってきた。
「ああ、シスカードの新作だろ。どうだい、使い勝手は?」
「壊れた」
「……」
さっと、ロナルドの顔色が変わった。
「おい、まさか不良品だとか言いに来た訳じゃねぇだろうな?」
愛想の良い商人顔が、危険な色に染まっていく。
「こいつは、うちじゃ滅多にない掘り出し物だったんだぜ?!それを、お前だからとわざわざ確保しておいてやった俺に、いちゃもんつける気かよ?!」
「そ、そうじゃなくて…っ!」
ダニエルが事の経緯を話す前に、ロナルドの誤解が先走り、険悪な雰囲気が室内を埋めようとしたとき、
「パーツが欲しい」
静かな声が、全てを鎮めた。
「ICパネルのひとつだけ、壊してしまった。手に入らないか?他は美品な良い端末なんだ」
さりげなく商品を誉められ、シリアの告げたパーツNo,を聞いて、ロナルドは数瞬前までの凶悪な顔もどこへやら、頬を紅潮させながら勢いよく頷いた。
「あります!あります!!ありますよっ!!なんなら、俺っちが今、組み替えます!!」
「そこまで世話になるのは悪い。パーツだけ売ってくれれば、後はこちらでやるから」
「何を言うんですかっ!そもそも、俺とダニエルは兄弟同然の仲なんですから遠慮しないで下さいって!!」
…いつから俺は、お前の弟になったんだ?
あまりの彼の豹変ぶりに、驚きを光速ですっ飛ばして開いた口が塞がらないダニエルだったが、それでも、確信した。

これは、使える。

待つこと30分。
電気ドライバーが青い火花を散らし、端末の裏の最後のネジを留め終えた。
商人である以上、商品のメンテナンスも或る程度出来ることが、商売人としてのステータスになる。
手早く、それでも丁寧に、ロナルドは仕事をこなした。
こんなにコイツが出来る奴だったとは、ダニエルも初めて知った。
「お待たせしましたっ!!」
満面の笑みで、ロナルドは完成した商品を手渡した。
手を出したダニエルではなく、その隣に座るシリアの方へ。
「ありがとう」
涼やかな声で、シリアは軽く微笑み礼を述べた。
「はっはひっ!い、いえっ!!」
「代金は、どうすればいい?」
どうせ、いつもながら法外な値段をふっかけてくるに決まってる。
取れる相手からは絞れるだけ取るのが商売の基本だと、ロナルドはいつも言っている。
電脳界から数字を操作できるダニエルとしては別に値段なんて問題じゃないないが、あまり額面が大きくなると面倒くさい事は確かだ。
それでも、こいつの仕事ぶりにはそれだけを払う価値がある、と思っていたのだが―――

「それじゃ、俺のお願い、きいてもらえますか?」

たどたどしいその言い方に、そしてその言葉に、傍らのダニエルは眼を丸くした。
こいつが、金じゃないものを要求するのを初めて聞いた。
言われたシリアは、少し眉を動かしただけで、その「お願い」とやらの続きを待った。
自分を完全無視してシリアから視線をはずさない真剣顔のロナルドの様子に、とてもいやーな予感がする。
なんか、ヤバイ。
(まさか、まさか、まさかこの野郎、シリアに一晩付き合えとか抜かすつもりじゃねーだろうな?)
そんなことを言ったが最後、瞬殺されるぞ!
思わず、そう忠告しようとダニエルが彼と彼女の間に割って入ろうとするより早く、ロナルドの舌がたどたどしく動いた。

「あ、貴女のお名前、教えて、くれませんか?」

かくんと、ダニエルの膝の力が抜けた。
ジョークかよ!?
が、ロナルドの顔は、どう見ても真剣だった。
こんなにまじめな顔のコイツを見たのは、初めてだ。
おまけに、ほっぺたまでほんのりと赤くなってたりして。
気持ち悪いを通り越して寒気まで感じたダニエルを余所に、シリアは何とも思わないのか、変わらない口調であっさりとそれに応じた。
いや、ほんの少しだけ、軟らかい表情で。

「あたしは、シリア。よろしく、ロナルド」

商人ロナルドにとって、数万キャッシュの代価に値する、一言だった。

何の前触れもなく部屋のドアが開く音に、目の前のスクリーンモニタに映る映像に奪われていた意識を戻し、腰の銃に手をかけながら、振り向いた。
「お邪魔するわね」
艶やかに微笑む細い影が、立っていた。
「何の用だ?」
軍の施設内とはいえドアにロックをかけておかなかった事を、その士官は後悔した。
当の訪問者は不機嫌そうな声を意にも介さず、馴れ馴れしく近寄り、部屋の中央にあるソファの真ん中にどさりと腰を下ろした。
「聞いたわよ。シリア、まだ捕まえられないんですってね」
嗤いながら、女は黒いスラックスに包まれた長い足を組む。
「せっかく『SARAH』が教えてくれたのにね。やっぱり『出来損ない』は何をしても駄目って事?」
嘲笑という名の微笑みが、モニタに視線を戻した士官の背中に弾けた。
「あいつには、協力者がいるらしい。ただの脱走者を追うのとは訳が違う」
「協力者?」
女が、素っ頓狂な声を上げた。
からかいではなく、本心から驚いたのだ。
「呆れた!自分の無能さを隠すにしても、もう少しマシな言い訳思いつかないの?」
彼女でなくとも、本質的に同じ疑問をきっと誰しも持つだろう。
だって、「あの」シリアだから。
感情というものが欠如しているとしか思えない―――実験材料にそんなもの、あっても邪魔なだけだが―――いつも冷たいシリア。
それでなくても、一被験者が外部にいつ、どうやって協力者を作れるというのか。
しかも、軍という大きな組織から彼女の所在を眩ませられるほど強力な力を持った者を。
「自分だって信じられないが、確かだ。『SARAH』もそう言っている。こんな時に、シリアのデータにアクセスした者がいるとな」
「『SARAH』が…?」
流石の女もふざけた表情を改めた。
その名前には、それほどのものがある。
「それで?何をしに来た」
スクリーンの画面を消し、士官は椅子ごと回って女と向き合った。
「一言言いに来ただけよ」
赤く塗られた女の唇が嗤いの顔を取り戻して、にぃっと吊り上がる。
「あたしが、シリアを捕まえてきて上げるってね」
「!」
士官の眼に、驚きと怒りが瞬時に浮かんだ。
「あの女に関しては、私が任されている。お前の出る幕じゃない」
「貴方があまりに無能だから、見ていて歯がゆくなっちゃうのよね。あたしだったらそんな事無いのに。『出来損ない』じゃないから」
恥辱に歪みそうになる表情を何とか堪え、士官も応酬に転じる。
「…ふ、お前が『出来損ない』ではないと、いつ決まった?それ以前の『未完成』が、そんな大きな口をきいていて、後で恥ずかしくなるかもしれんと言うのに」
士官の薄く青い眼と女の濃く黒い瞳が、火花を飛び散らせんばかりに衝突した。
「…ニュースを楽しみにしていて頂戴。あたしはあんな奴、『完成品』なんて認めてないわ」
ふぃっと黒髪を揺らして女は視線をはずすと、笑みを消した顔で立ち上がった。
憤然と出て行く女の後ろ姿を見送ることもなく、士官は再び椅子を回してスクリーンのスイッチをONにした。
白く輝く画面の後、映し出されたのは―――

「…あんな奴に、負けるお前じゃないだろう?」

直立不動で敬礼する軍服姿の一人の少女。
被った帽子から垂れる、縛った長い髪。
どことなく虚ろな視線だが、それでも美しい、アイスブルーの瞳。

憎悪と嫉妬と、憧憬の入り交じった嘆息と共に、呟かれた少女の名前。

「シリアさん…か」

缶ビ-ルのプルトップを開けながら、ロナルドはまだ、さっきの少女との会話の余韻に浸っていた。
一点の曇りのないブルーダイヤを思わせるあの瞳を思い出すだけで、ぞくぞくする。
そして、思い出した。
あの二人に言わなかった事が、彼には一つあった。

昨夜、突然軍の士官が二人、自分にアクセスしてきた事を。

「この子供を知らないか?」
ぐいと突き出された、片手に持ったハンディモニタに映し出される、少年の姿。
間違いなくダニエルだ。
「知らないね。ガキなんざそこらにうろうろいるしよ」
自分の大事な金を吐き出す客を官憲に売り渡す馬鹿ではない。
嘘は、滑らかにロナルドの口をついた。
「そうか」
中年の軍人達は特に失望した様子も見せず、あっさりと引き下がった。
その様子から、あまり気合いを入れて探している感じではない。
命令に渋々従っているだけ…と言った感がありありだ。
「そいつ、何かしたんすか?」
一応、何かの役に立つかもと思って訊いてみたが、二人はただ憮然とした顔を見合わせている。
「俺らも知りたいぜ、そいつをよ」
「だいたい、名前と外見が分かったからって、シティと違ってスラムじゃ探しようがねぇっての、分かってないんだよな。上の奴ら」
その愚痴で、ロナルドも一気に興味をなくした。
大方、ダニエルの奴、スリでドジでも踏んだんだろう。
電脳師ならそれだけで大人しくしてりゃいいものを、何であんな事してるのか、あのガキの思考はロナルドにも理解不能だ。
どちらにしろ、金の匂いはかぎ取れない。

だから、ダニエルとシリアを送り出した今の今まで、すっかり忘れていたのだ。
会った時にでも一言教えておいてやろうと思っていたのだが…
「…ま、いっか」
そう重要なこととは思えないしな。
後で、覚えていればダニエルにメールしてやればいい。
こいつを飲み終わったらな。
少女が手を付けなかったビールを、ロナルドは一息で半分ほど飲み干した。

軍人達は、自分らの担当ではなかったとはいえ、もう一つの映像も見せてみるべきだったのだ。
そうすれば、少なからず動揺するロナルドの様子に、訝しさを感じ取れただろう。
そうなったら、連行して、強制的に情報を吐き出させていたはずだ。
それを得てさえいれば、彼女をサポートしていたのが誰だったか、上層部の謎も氷解できていたのだ。

探す少年と一緒にいると思われる、大本命の少女。
長いプラチナブロンドとパーカー、ロナルドがようやく名前を教えて貰った、「シリア」の姿を。