来てくれた。
シリア…やっと、来てくれた。
様々なバグやダミーを交えつつも、膨大な情報を詰め込んだ大小のコロニーに区切られている電脳の世界の中。
そんな中へ、外部から突っ込んできた一つの光。
「変換、完了」
発光する影は、ヴンッと命令文の檻に包まれたと思うと、たちまち小柄な少年の姿を形作る。
ご丁寧にトレードマークのベレー帽までも頭に載せて。
いつもなら、そこは母親の胎内とさえ思えるほど居心地の良い場所であるのに、今は焦燥感ばかりが心をきりきりと締め付ける。
「シリア…」
命令を立ち上げ、シリアの意識を改めて検索し直す。
外部からは探しきれなかった細い糸も、今なら掴めるはずだ。
電脳界が、軍が作り上げた、この最高の電脳師に隠し立てなど事は出来ないのだから。
あたたかい。
肉体こそ人間のそれとかけ離れてはいても、心は同じ。
白い光に包まれた今のシリアは、まるで泣き疲れて母の膝で眠る子供に還っていた。
『そう、眠りましょう』
「そう…ね。サラ……」
名前を呼ばれ、傍らの少女は、嬉しそうに微笑んだ。
『ようやく会えた』
「ええ……」
ごめんね、ずっと寂しい思いをさせて。
ここなら、サラの事だけ考えて、全てを忘れて微睡んでいられる。
強化人間であることも
無くした過去も
坊やの事も
『カエッテ』
唐突に小さな女の子の声がした。
ドクン、とダニエルは心臓が跳ねる音を聞いた。
意識だけの身体に、感じるはずのない鼓動。
守護プログラムに頑丈に保護されているはずの自分に干渉してくる、声。
姿は見えない。
勿論、今のこの世界で視覚などあてにはならないが、相手も『声』と言う干渉手段を使っている以上、今のダニエルと同じく人の姿を取っているはずだ。
「………」
検索
「お前……」
プロテクトがあります
構成式を入力して下さい
『エ?』
検索終了
「お前が、『SARAH』か」
『キャア!!』
甲高い悲鳴が、あるはずのない電脳世界の空気を振動させ、少女の姿がダニエルの前に突如現れた。
引きずり出されたと言うべきか。
目鼻立ちがぼんやりと分かる程度の発光体で表された姿だが、ダニエルよりも幼い童女だとは分かる。
『ナニスルノ!!』
「お前が姿を出さないからだよ。ようやく会えたな」
かつて、シリアのファイルをコピーしようとした際の妨害を、ダニエルは忘れてない。
あの瞬間、こいつは自分を凌駕したのだ―――
『………』
怒りの表情で睨む子供の表情が、ふと変わった。
幼い顔立ちに似つかわしくない、悪意の笑い。
『カエッテキタノネ。No.Dー507865-3-895372』
「!!」
今度は、ダニエルが驚愕する番だった。
「てめっ…!」
どうして知ってる?
消したはずだ。
今の俺は、ダニエルと言う名前。
そんな番号は、あの日以来……
『シリアハ返サナイ』
「なんだと…」
少女と少年の間に、見えない火花が散る。
かたや嘲笑。
かたや焦燥。
共通するのは、一人の少女への想い。
「何者なんだお前?どうしてシリアを…!」
少女の嘲笑が増す。
『ナラ、調ベテ見レバ?情報操作ハ電脳師ノオ得意技デショウ?』
「くっ!」
ダニエルの頭にカッと血が上る。
今まで、こと情報操作に関しては誰にだって引けを取った事なんて無い。
脱走した時だって、情報破棄は完璧だったはずなのに―――!
「ざけんじゃねぇ!」
ダニエルの声と共に、数種の方程式が少女の周囲に檻を造った。
少女の能力を鑑みての、そう簡単に解けるはずのない難解な式。
それなのに―――
ガシャン、と乾いた音と共に、あっという間に式は割れ砕けた。
『下ラナイ。コノ程度デワタシヲ封ジラレルト…』
侮っていたのは、少女か、少年か。
嘲笑う『SARAH』に、ダニエルもにやっと不敵な笑みを返した。
「まだまだ甘いな、お前」
少女が式を解く、その一瞬だけで良かった。
意識が檻を解除する為に計算するその瞬間に、ダニエルのコマンド入力は完成していたのだから。
「シリア―――!!」
『!!』
命令文は何の障害も無く実行され、少女が大事に大切にひた隠していた情報の一片が、とうとう見つけられてしまった。
一欠片でも綻びを見つけてしまえば、後は容易い。
『シマッ…』
少女の妨害命令文も、ダニエルが彼女のために組み直したプロテクトに阻まれ跳ね返される。
計算速度の拮抗は崩れた。
一瞬の間、しかしその一瞬にこそ、電脳師同士の戦いはあったのだ。
『ダメ!ヤメテ!!返シテェェ!!』
シリアの意識を構成する情報を取り出し、組み立て、構築する。
流れるプラチナブロンド、すらりとした痩身の肉体情報
失われた過去とは別の、現在を生きている記憶
眠る胎児の様に身体を丸めて横たわるシリアの姿が、二人の前に現れる。
その瞼が、ぱちりと開いた。
きらりと光るアイスブルーの瞳。
そこにはっきりと灯るのは、意志を取り戻した光。
「坊、や・・・・・・?」
「シリア!!」
『シリア!!』
シリアは、『SARAH』ではなく、ダニエルを見た。
『シリア』を構成する情報は、取り返した―――!
『シリア!!シリアァァァァァ!!』
悲痛な叫びが、長く尾を引いて…
はっと目を開くと同時に、ダニエルは飛び起きた。
ここは?
現実世界だ。
顔を覆うバイザーの中央に警報音と共に点滅する、赤い『DANGER』の文字。
次いで、カメラ・アイが写す、部屋の入り口前の映像が転送されてくる。
作業用機械の墓場を抜け、誰かがそのドアの向こうに立っている。
しなやかな黒いスーツに身を包んだ―――
顔はここからでは見えない。
だが、腕に付いている軍章から、その素性は推し量れる。
リンクしていた警報装置が、危険と判断し主を電脳界から呼び戻したのだ。
「シリア!やばい、追っ手だ!!動けるか?!」
バイザーを引きはがしながら再びベッドを見下ろし―――
ダイブする前と同じ状況である事に、凍り付いた。
ぴくりとも動いた様子すらなくベッドに横たわり、目を閉じたままのシリア。
「シリア…?」
恐る恐る名を呼びつつ、そっと肩に触れてみる。
j反応無し。
メキッと、ドアがきしむ音がした。
だけど、ダニエルは動けない。
「おい…シリア……」
確かに、シリアの意識は取り戻した。
彼女は己の意識が情報の一部ではなく、個人で在る事を認識した筈だ。
警報システムに呼び戻されたお陰で、シリアの意識が現実世界へ戻るところまでは見届けられなかったのだが…
「まさか…」
シリアの名を叫んでいた『SARAH』。
ダニエルの正体を知り、匹敵…もしくはそれ以上の計算能力を持つ意識。
あいつが―――
蝶番の弾け飛ぶ音に、ようやくダニエルは顔を上げた。
その目の前で、ガタが来ていた鍵もろともチタン合金製のドアはいとも簡単に引き剥がされた。
「お邪魔するわよ、坊や」
カツン、とヒールを鳴らし、黒い姿が入り口から堂々と入ってくる。
「お前…!!」
女だ。
シリアより少しだけ年上の、若い女。
つり上がり気味の目と肩で切りそろえられた黒髪が、彼女によりきつい印象を与えている。
そんな事、今は問題じゃない。
相手は、「片手にまだドアを持ったまま」だった。
「あら、いけない」
ダニエルの視線に気づき、女はようやく掴んでいたドアノブを離した。
かつてドアだった、今はねじくれた金属板は、鈍い音を立てて床に倒れた。
その衝撃で上がった砂埃が、その重さを物語る。
こいつ、素手で――
行為自体は驚くべき事じゃない。
同じ事を、生身の身体で平気でやってのける相手と、ダニエルはずっといたのだから。
でも、何だろう。
この女から感じる、妙な雰囲気は……
「お前、サイボーグか?」
何の為に来たのかなんて、今更訊かない。
ただ、近づいてくる目の前の敵に、時間を稼ぎたかった。
そう、せめてこの片手が枕の下に届くまで…
「こんな時に、お休み中?呑気なものね」
ダニエルをすんなりと無視し、女は彼の背後の光景を鼻で笑った。
「『SARAH』には悪いけど…「成功例」は一人でいいわ」
「なっ…!?」
突然の言葉に、ダニエルの視界がぐらりと揺れた。
今、こいつ、誰の名前を言った?
何が一人でいいって?
「どいて頂戴、勇敢な坊や」
「いやだね」
枕に伸びていた腕が引き出され、女へと向けられていた。
その手に握る銃は、既に安全装置もはずされている。
内心の動揺をかろうじて押し隠し、ダニエルは女と対峙する。
「上からは、あんたも連行してくる様にって言われてはいるけれどね。大層な電脳能力を持ってるからって」
目の前の少年が、かつて自分たちが育て上げたものだと、彼らは知らない。
「でも…あたしにはどうだっていいの」
赤い唇を、女は笑う形へと禍々しく歪めた。
黒い姿と相まって、それは正にファンタジーの死神を思わせる姿だった。
「シリアを殺せれば」
その一言で、ダニエルは躊躇わなかった。
目の前の黒い女に向け、トリガーを淀みなく引いた。
「本当か?そんな電脳師がいたなんて記録、どこにも…!」
誰かと誰かが通信する声。
「ああ…分かってる。『SARAH』は正しい。私達の記録の方が、改竄されているのだろう」
軍帽を握りしめていた指から、ゆっくりと力が抜けていく。
短い金髪の頭が力無くうなだれるのを、モニタからの声が叱咤する。
アイツニ、キヲツケテ――
ぽたり、と垂れた赤い雫がタイルの床を汚す。
だが、撃たれた者より、撃った者の方が今にも倒れそうな状態だった。
「…え………」
ガクガクと震える腕の先、硝煙を吐く銃口の向こうに立つ女の顔半分が、赤く染まっている。
せっかくの美貌を無惨にも剔られた左頬が、だがしかし、ダニエルが見守る前で、元通りすべすべした肌へと治癒して行く。
まるで、ビデオのコマ戻しの様に傷が塞がれていく。
「乱暴な子供ね」
その言葉が終わる前に、ダニエルは銃を手放し、シリアを庇う様にその上へと倒れ込んだ。
ほぼ同時に、黒い衝撃が空にある銃を蹴り飛ばす。
もう少し銃から手を離すのが遅ければ、ダニエルの右手は銃ごと吹き飛んでいただろう。
「お前、まさか…」
目の前へと迫る死に、それでもダニエルは確認せずにはいられなかった。
流れる赤い血――
サイボーグじゃない。
この回復力―――
人間離れした力―――
感じた妙な雰囲気…それは、見知っている者によく似ているから―――
まさか――……!
「シリアなんかじゃない」
黒い女は艶やかに笑った。
「あたしこそが」
彼女に、銃なんて要らない。
そのまま、動けない少女に覆い被さる少年の頭もろとも目がけて、黒手袋に包んだ拳を振り下ろす。
「成功例、よ」
風を切る音が耳に響く。
次いで、鈍い音。
少年の視界は黒く閉ざされた。