「足掻くものね」
冷笑を浮かべた女が一瞬前までダニエルの頭があった位置へめり込ませた拳をベッドマットから引き抜くと、歪んだスプリングが数本飛び出した。
「そりゃーな」
その返答は随分と低い位置から返された。
シリアを抱える形で、ダニエルはベッドと壁にの間に空いた隙間の床に転がっていた。
咄嗟にベッドの反対側に落ちて避けたはいいものの、今度こそもう逃げ場はない。
前にはベッド、背中と横は壁、銃は遙か遠くに転がったままだ。
「男なら潔く諦めなさい。お姫様を守る騎士の役目はここまでよ」
セミダブルのベッドをゆっくりと廻って女が近寄ってくる。
ダニエルの掌に冷たい汗が滲む。
その小さな腕の中で、シリアはこの状況を知らず、こんこんと眠り続ける。
「いいのかよ。『強化人間とそれと共に行動している少年は殺すな』って命令が出てるだろ」
電脳世界で覗き見た軍の伝達を突きつけても、硬質ガラスの様な女の表情にはヒビ一つ入れる事すら出来ない。
「構わないわ。さっきも言ったでしょう、あたしはその女を殺せればいいの。発見した時、『標的は既に死亡』していたんだし」
「…!」
カツーンとヒールの音が止まり、女は床に蹲まるダニエルとシリアの前へ立った。
完全に退路は塞がれた。
「『強化人間の唯一の成功例』。そのレッテルをあたしが剥がしてあげる」
俺に、シリアみたいな戦う力があれば…!
最強の電脳師としての能力も、この危機にはどうしようもない。
せめて、せめてベッドの上に放り出したままの端末がこの手にあれば――!
「シリア、起きろ。起きてくれ!」
幾度小さく呼びかけ肩を揺すり続けても、閉ざされた瞼はぴくりとも動かない。
本当に、自分はヘマをやらかしたのかもしれない。
SARAHがそう簡単な相手じゃない事は分かってる。
それでも、振り切れたと思ったのは、俺の奢りだった?

最悪だ――

すぐにでも電脳界へ舞い戻りたくても、このままじゃ、あの世へ飛ばされる羽目になっちまう。

「そうだ、最後に聞きたかったの。シリアのデータにアクセスしてきたのは坊や?」
「………」
女を睨み返したまま、ダニエルは答えない。
そんな態度も女は気にする事はない。ただ聞いてみただけだと言う感がありありだ。
「いいわ。じゃあね、勇敢な坊や」
ドアを破壊した力を込めた拳がもう一度振り下ろされるまで、ダニエルはシリアの身体を最後まで抱きしめていた。
そして、来るべき衝撃に、諦めにも似た覚悟をしながら両目をきつく閉じた。

腕に衝撃。

抱え込んでいたシリアの身体が吹っ飛ばされて――

誰かが息を飲む音。

「…?」

それが自分じゃないのだ、と随分遅れて認識した後、ようやくダニエルは瞼を開いた。
衝撃を受けたはずの両腕は痛みも無く、ただ空を抱いていただけで。
そして、目の前には、失ったと思った背中。

白い手が黒い拳を受け止めていた。
「お前…!」
咄嗟に離れようとしても、がっちりと握られて女は動けない。
こんなにも華奢な指なのに。
チタン合金の扉も易々と破壊できる女の力を、それでも相手は静かに押さえ込んでいる。

「え……」

座り込んだまま、動けないまま、ダニエルはその光景を呆然と眺めていた。

「シ………」

プラチナブロンドの前髪が揺れ、アイスブルーの瞳を晒した。

「シリア!!」

女と少年の声が重なった。

shilia8

「そんな!『SARHA』はどうして…!」
動揺を隠せない女に、
「あたしを殺せとは言われてないでしょう?」
言って無造作にシリアが腕を振ると、女は壁際まで軽々と放り投げられた。
「シリア…!」
それでも無様に倒れることはなく受け身をとって体勢を立て直した時、既にダニエルの身体を小脇に抱えたシリアは狭いベッドの隣を抜け出し、出口 へ駆け込むところだった。
「待て!!」
ここになって初めて女が腰の銃を抜いた。
「坊や、先に行け!」
「わあっ!!」
ぽんと放り投げられ、通路に並ぶスクラップの山へ頭からつっこんだダニエルを顧みず、シリアは空いた両手を足下に投げ出されている歪んだドアへ伸ばした。
「!」
盾にする気、と践んで一瞬躊躇した女は、信じられないものを見た。

自分が壊したチタン合金製のドアがまるごと、こちらを押しつぶそうとする勢いで飛んでくるのを。

「きゃあ!!」
思わず反射的に飛びすさってしまった。
たった今まで女が立っていたその場所へ、チタン合金の板は轟音と凄まじい砂埃を立てて倒れ込んだ。
「シリア!!」
慌ててそれを踏み越え部屋を出ても、もう少女と少年の影すらも残ってはいなかった。

「・・・・・・・・・」
逃げられた。
SARAHが用意してくれた最高のチャンスだったのに。
ぎりりと血が滴るほどに拳を握りしめても、傷は瞬く間に治ってしまう。
そう、『強化人間同士』の決着をつけるチャンスでもあったのに。
シティに逃げ込まれでもしたら、それこそ命令違反などもう出来なくなる。
SARAHの呪縛から逃れられなくなる―――
「くそっ!」
腹立ち紛れに傍らの壁を殴ると、あっけなく崩れ大穴が開いた。
この力はあたしに与えられたものだ。
研究所からも認められた『成功例』だけに。
シリアや『あいつ』の様な『出来損ない』にじゃない。
シリアと一瞬だけ交えた拳をじっと眺める。
さっきは驚きのあまり油断しただけ。
真正面から組めば力も技も圧倒的にこちらが優位だとデータ数値が証明している。

とにかく、SARAHに報告はしなければ。
シリアとあの子供の追跡情報を貰わなければ動けない。
シリアをどうして解放したのかも問い合わせなければ。
自嘲の思いを込めた溜息をひとつ吐いた後、思い出した様に、耳に装着した通信機の電源をようやく彼女は入れた。
 
 
 
 

シリア――

「彼女」は思いを馳せた。
ようやく捕まえたと思った。
いいえ、ようやく会えたのに。ずっと会いたかったのに。
ここへ来てくれれば、あなたが欲しいものをあげられるのに。
あげる?
いいえ違う、思い出して欲しいだけ。
奪われたものを戻してあげるだけ。

『真実』を知って欲しいだけ。

『あの時あなたが願った事の結末』を見て貰いたいの。
そして、

わたしの願いを叶えてもらうため―――

 
 
 
 

「バカ」
「ああ」
「バカッタレ」
「そうね」
「ばっかやろぉおお」
「そうみたい」

幸い敵は個人で動いていたらしく、物騒な包囲網が敷かれていなかったのが幸いした。
ネットで軽く情報を探ってみたが、特別な警報も配備もされていない。
道すがら失敬したバイクはシリアの一発の蹴りで息を吹き返したものの、ギリギリ隣接する地区へシリアとダニエルを運んだ辺りで真実の臨終を迎えた。
路地裏で完全にスクラップと化したバイクと別れを告げ、またアテもなく少年と少女は歩き続ける。

その間に交わされた会話が、これだ。
主語も要領もあったもんじゃない。
端から見れば、微笑ましい姉弟喧嘩にしか見えない。
いや、ダニエルからすれば言いたい事は日が暮れるまで語れる自信があるほどなのだが。
今回の事態はあまりに切実過ぎた。

警告を無視して意識はSARAHに取り込まれ、肉体は黒い女の姿をした『死』に襟首まで掴まれたようなものだったのだから。

「………」
ぴたりと足を止め、シリアがこちらを見下ろした。
慌てて顔を背けたけれど、ベレー帽の影では隠しきれなかった。
「……ごめん」
シリアがダニエルの目線へと、腰を曲げて覗き込んできた。
「………」
ダニエルは答えない。
答えられない。
視線を合わせられない。
顔を上げる事も出来ない。
だって、今、口を開いたら……
「ばかやろ」
ようやく絞り出た言葉と共に、俯いたままの頬を透明な雫が伝った。
「ごめん」
今一度の謝罪と共に、細い両腕が少年をその胸へと抱き寄せた。
「ばか、ばか、ばか」
「そうね」
非難の言葉をシリアはただ受け入れた。
「本当に、死んじまうかと…死ぬかと思ったんだからな」
最後の方はしゃくりあげて上手く言葉にならない。
それでも、シリアは頷いた。
「坊やの声が聞こえた」
互いの温もりが交わる。
鼓動も。
一つは静かに、そして一つは今にも血管が破裂しそうなほど激しく脈打つ。
ああ、生きてる。
電子変換された感覚じゃない。
生身の、温かい血の通った肉体だけが伝えられるこの感覚。

(っくしょー!何で俺はこんなにみっともなく泣いてんだ!)
頭の一部では冷静になろうともがいているが、涙腺と呼吸器はそんなダニエルの意思に従う素振りも見せない。
この涙は何なのか。
死への恐怖?
誰の?
自分か、それとも―――

それでも、
それでも

もう少し、このままでいたかった。

 
 
 

「やはり荷が重すぎか。あいつも…そして、もしかすると自分もな」
軍帽をコンソールの上に放り投げ、自嘲気味に呟く声。

「そして、『SARAH』をも出し抜いた素性不明の子供――」

面白くなりそうだ。

不敵に微笑むその瞳は、まだ戦意を失ってはいなかった。