×月×日
母に客を取れと言われて、わたしは逃げ出した。
その時に持ち出したものが、何故この日記帳だけだったのかは自分でも分からない。
まぁ、財布には1ペニーだって入ってやしないけれど。
満足に学校も行かせて貰えずそれでも一生懸命勉強して、ようやく文字だって読んで書ける様になったって言うのに、結局体を売るしか駄目なんてあんまりだわ。
文字の練習も兼ねてつけていたこの日記帳が、今のわたしにとって一番大切なものだったみたいね。
まだ頭が混乱してるけれど、色々整理しながら昨夜の事を書こうと思う。
結局、大通りまで出たところで母の男に見つかってしまった。
「金を稼げねぇなら死ね!いっそ金持ちの馬車にでも轢かれちまえばたっぷり恵んで貰えらぁ!そら!!」
言うが早いか街路の真ん中へと思い切り突き飛ばされ、馬の嘶きと黒い馬車の影が目の前に迫ったところで、わたしの意識はぷっつりと飛んだ。
それからどれくらい経ったのかしら。
素晴らしく肌触りの良いシーツの感触で、わたしは目が覚めた。
瞼を開けた世界は薄暗くてぼんやりとしか見えず、ああ、わたしはとうとう死んだのだ、とその時は本気で信じた。
覚えているのは、さっき書いた通り大きくて真っ黒な馬車が目の前に迫ってきたところまで。
あの強突張りな母と男の事だ、きっとずたずたになって無惨な姿のわたしの死体を喜んで死体屋に売り払うに決まってるわ。
「良かった、目が覚めたんだね」
澄んだ声がすぐ傍で聞こえて、わたしはそちらに目をやった。
男の人が、横たわったままのわたしの傍らに椅子を置いて腰を下ろしていたんだわ。
何の音も気配もしなかったし、全然気付かなかった。
慌てて起きあがろうとしたら、いきなり右足に痛みが走って思わず呻いてしまった。
「大丈夫かい?足を挫いてしまった様なんだ。他に痛いところはあるかな」
右足首を撫でると、白くて清潔な包帯が丁寧に巻いてあった。
この人が手当をしてくれたのかしら?
お礼を言わなきゃ、とわたしは顔を上げて、
「あの……」
ここまで口にした後は、わたしは息をするのも忘れて、見入ってしまっていたと思う。
やっぱりわたしは死んだんだわ。
サイドテーブルに置かれたランプの柔らかい明かりに照らされたその人は、教会で聞いたお話に出る天使はきっとこんな姿なのよ、と思っていた通りの姿。
わたしが田舎娘のせいかもしれないけど、こんなに綺麗な人が世の中にいるなんて想像もしていなかった。
黒い髪と黒い瞳がこんなにも似合う人を初めて見た。
ベスト姿のラフな格好だけれど、十分過ぎる気品を感じられた。
年は私と同じか少し上くらい?けれど身分は比べるべくもないわ。その雰囲気だけで高いご身分の方だってすぐに分かるもの。
「ああ、驚いたよね。えっと、ここは俺の屋敷なんだ」
固まってるわたしを見て、男の人は別の納得をしたみたい。
「馬車に当たってはいないと思うんだけど、君は気を失ってしまって、とりあえず手当のために連れてきたんだ」
それで理解した。
ここは貴族のお屋敷なんだ。
この人は貴族様で……
「紅茶、飲むかい?気分も良くなると思うよ」
男の人の側に控えていたメイドから差し出されたカップには、湯気と共に香り高いお茶が淹れられていた。
こんな高級そうなカップ、わたしが逆立ちしたって買えっこ無いし、茶葉だってきっとすごい代物なんだろうな。
ついついそう僻んでしまう、本当に嫌な女だわ。
生まれて初めて口にした紅茶は、とても良い匂いがして美味しくて、いつも飲んでた水が泥水みたい。
「…美味しい」
思わず漏らしたわたしの言葉を聞いて、彼は、自分が褒められた様にニコッと笑った。
「今夜買ってきたばかりの葉なんだ。俺の一番のお気に入りでさ、口に合って良かったよ」
堪えきれず、わたしはぽろぽろと涙を零してしまった。
「だ、大丈夫?!どこが痛いんだい?」
慌てて立ち上がった男の人へ、わたしは首をぶんぶんと横へ振った。
「ご、ごめんなさい、わたし、貴族の方の馬車にご無礼を、なのにこんな……」
「いや、謝るのはきみに怪我をさせてしまった俺の方だから」
そこまで彼が言いかけたところで、
「どーして人間なんて連れて来るの?!」
とかなんとか、甲高い女の子の叫びと一緒に突然ドアが蹴破られんばかりに勢いよく開き、ピンクのドレス姿の女の子が突進してきた。
「こ、こら、ケイ!下にいろって言ったろ!!」
その子はベッドのわたしに飛びかかる寸前で彼に抱き留められた。
「何だよお前、カイルにあんまりくっつかないで!」
そんな事を叫びながら大暴れする女の子。
頭の後ろで束ねた長い亜麻色の髪はふわふわで、まるでネコの毛みたい。
「失礼した、この子はケイって言うんだ。口は悪いけど気にしないで」
ケイ、って呼ばれた女の子はわたしを睨みながら彼にぴったりとしがみついている。
奥様…には見えないな。妹さんなのかしら?
とりあえず、わたしはこの子には間違い無く嫌われたみたい。
「そう言えば名乗るのが遅れたね。俺はカイル。きみは?」
ようやくわたしは恩人のお名前を知ることが出来た。
カイル様!
何て素敵なお名前でしょう。
「わたしは、ミリ…エミリアと言います」
「じゃあエミリア、気分が良くなったら君の家まで送らせるよ。あの街のどこだい?」
「……わたし…」
わたしは一呼吸置いて、答えた。
「わたし……家が思い出せないんです」