この森に入ったときに追ってきた跡の先に、影の気配は続いていた。
その気配は、以前リュションを発見したときに感じたものと同じ。
吸血鬼のようであって、違う、それに。
(だが…こいつは……)

木立の中を進む内、見慣れた場所に出た。
「ここは…」
昨夜、ハリスと一緒に訪れた場所だった。
リュションが薬草を握りしめて死んだ広場。
そこに、小さな黒い影がうずくまっている。
そして、ひっきりなしに聞こえてくる、ぴちゃぴちゃという、何かを舐めるような音。

影がふと顔を上げて、ラルクの方を見た。
月明かりが、ラルクと、その黒い影を照らし出す。

「お前が、吸血鬼…?」

ラルクの言葉を受けて、影は耳元まで裂けた口をきゅーっとつり上げた。

「吸血鬼ニナル…。血ヲ啜ッテ、魔力ヲツケテ……」gaki

そう呟く醜い顔は、餓鬼のようだった。
いびつに曲がった鉤爪、血で濁った大きな目、せむしのように曲がった背骨。
ちろちろと伸びる舌は真っ赤に濡れていた。
子供くらいの大きさのそいつがのしかかっているのは、ジムと呼ばれた村人か。
喉が例に漏れず大きく裂かれているものの、傷口は丹念に舐め取られたせいか以外と綺麗だった。

「何人モ血ヲ啜ッタオ陰デ、コンナニ大キクナレタ…。チカラモツイテキタ…」

子供くらいの大きさのそいつは、誇らしげな笑みを浮かべたが、ラルクは冷ややかな視線を返すだけだ。

「お前は、ここに君臨したという吸血鬼の下っ端か?」
「アア…。偉大ナ吸血鬼ダッタ…アノチカラ、アノ美シサ……憧レタ」
魔物は陶然とした表情になった。
「ダカラ、俺モナルンダ。吸血鬼ニナルンダ。アノチカラト美シサヲ手ニ入レルンダ。モットモット血ガ必要ダ…」

陽光に耐えられる吸血鬼。
そんなものは存在しなかった。
いたのは、吸血鬼に焦がれるあまり、人間の血を啜ることで力をつけ、残っていた吸血鬼の気配の残滓と融合した、ただの下等な魔物。

そいつの濁った瞳が、ラルクを見た。
「オ前も美シイ…。オ前ノ血モヨコセ」
血でぬめった鉤爪をラルクにゆっくりと向けた。

「お前が、吸血鬼になるだと?」

欲望のままに襲いかかろうとしたそいつは、氷の剣のような冷たい声に貫かれて一瞬動きを止めた。

「オ前、目ノ色ガ…?!」
魔物が一歩後ずさった。
目の前の、世にも美しい獲物が、変貌を遂げようとしていた。
髪の色と同じく黄金色だった両の目が、徐々にその色を変えていく。
赤く赤く、血の色に。
そして、先程まではみじんも見せなかった異様なほどの鬼気。
風は吹いていないはずなのに、周囲の空気が揺れ動いているようにも感じる。

恐れをなした魔物は、耳障りな悲鳴を上げてさっきまでしがみついていた村人の死体の影に隠れようともがいた。
「どうした?」
今や爛々と赤く燃える瞳を、ラルクは汚らわしいそいつに向けた。
そいつはうずくまったまま、キイキイ鳴きながらただ震えているだけだ。

「『吸血鬼』がそんなに恐ろしいか?」

とうとう、耐えきれなくなった魔物は弾かれたように死体の影から飛び出した。
そのまま、木立の中へ逃げ込もうとする。
その後ろ姿をラルクに睨め付けられただけで、そいつの筋張った体は空中で硬直した。

「オ前…ソンナ……!?」

「お前のような下蔑の者が吸血鬼になるだと?」

吹き荒れる熱風のような鬼気とは裏腹に、ラルクの声はあくまで冷たかった。

「身の程知らずが」

その声と同時に、ぼんっと爆発するような音があたりに響いた。

「なっ……」
背後からの声に、ラルクはゆっくりと振り向いた。
すでに瞳は穏やかな黄金色に戻っている。
エマが銃を構えたまま、立ちつくしていた。
「あいつが、吸血鬼の正体…?」
ラルクを追ってきたエマは途中から見ていたらしい。
彼女は呆然と、辺りに散った汚らしい肉片を見回した。
そのまま無言で立ち去ろうとしたラルクの背中に、エマが銃を向けた。
「動かないで!」
「……」
「例え村を襲ったのがあんたでなくても、あんたは正真正銘の吸血鬼じゃないの!見逃すと思って?」
「…やめておけ。今は夜だ」
「そうね。それなら、このまま朝まで待ってくれる?」
ラルクはため息を吐きながらゆっくりとエマに向き直ろうとした。

「ラルク!そこにいるのか?!」

予想もしなかった闖入者の声に、二人の間に張りつめいていた緊張の糸が弾けた。
エマの指が思わず声の主に向かって引き金を引いてしまった。
同時にラルクが投げた小石がエマの手の甲に鋭く当たり、彼女は銃を取り落としたが、既に発射された聖なる弾丸は、守るべき人間の背中を貫いた!
ハリスがよろよろと木立の中から現れて、がくりと膝を突いた。
「あ…」
胸に当てた手から夜目にも鮮やかな鮮血が流れ出している。
駆け寄ろうとしたラルクは、ある気配を感じで寸前で身をひねった。
風の固まりが彼の側を駆け抜け、大理石のような白い肌に、一筋のうっすらと赤い傷が出来た。
「近づくな!汚らわしい魔物が!!」
ハリスを撃ってしまった事でさしものエマも動転したが、今は使命が優先したらしい。
そのエマの足下に、いつの間に現れたのか、白く光を放つ半透明の子犬がいた。

「そうか…。お前、サバタリアンか」
ラルクは頬の傷から滲み出た血を指先で拭いぺろりとなめた。

「そうよ。普通の人間がハンターなんて出来るわけが無いじゃない」

サバタリアン――土曜日は聖なる曜日であり、その日に生まれた子供は屍鬼に対抗する力を持つ。
勿論、全ての者がなれるというわけではないが・・・。
その能力の一つが、『霊犬』だ。
通常の人間には見えない守護霊のようなもので、サバタリアンといつも共にあり、主に吸血鬼を攻撃する強力な存在。
先程ラルクが身をかわさなければ、今、エマを守るように唸っているこの子犬に喉笛を噛み砕かれていたかもしれない。
「お行き!」
エマの叱咤と共に、咆哮を上げて霊犬が再び飛びかかってきた。
が、すっと細まったラルクの瞳がまたも赤みを帯びてきた。
自分に敵対する者には容赦はしない。
わざと伸ばした左腕に、敵は鋭い牙を立てた。
エマと霊犬の一瞬の困惑。
そして――ラルクの右手がそっと霊犬の首筋に触れた。
その途端、
「ああっ?!」
エマが止める暇もなかった。
半透明の霊体の犬の首が、たいして力を入れたとも思えないラルクの片手によって引き裂かれたのだ。
霊犬は悲痛な叫びを残して、空へかき消えた。
実体を持たないものを引き裂いた、吸血鬼の力。
「よ…よくも……!」
悲しみと怒りに震えていたエマの表情が、さっと冷えた。
自分を守ってくれた霊犬はもういない。
そして、銃は手の届かない草むらへ…。
残されているのは最後に打ち込む予定だった白木の杭だけ。
ここにいるのは、もはやハンターではなく、無力な一人の女に過ぎないことを理解してしまったのだ。
そして、吸血鬼はゆっくりとこちらへ迫ってくる…。

ああ、対峙している敵の何という美しさ。
エマは、恐怖を一瞬忘れて、目の前の男に見入った。
闇は、この吸血鬼を覆い隠すどころか、まるで豪奢な衣装のようにその美貌を引き立てている。

…ふと小さな水滴が頬にあたった。
思わず上を見上げると、先程まで辺りを照らしていた月はいつの間にか姿を隠し、暗雲が夜空を覆っている。
そして、あっという間に大粒のどしゃ降りが地上に降り注いだ。
「雨…」
呟いたラルクとエマの体を、滝のような雨が覆っていく。
倒れて呻いているハリスにも。
雨にうたれた途端、ラルクの顔が強ばり、エマは逆に生気を取り戻した。不敵な笑顔が甦る。

「神様はあたしを見捨てなかったようね」

嘲るエマの声に、ラルクは答えなかった。

伝説に言う――吸血鬼は流れ水に弱い。
悪を清め、洗い落とすからだと。
その為、吸血鬼は河を渡ることは出来ない。
水に入れば体は硬直し、泳ぐことが出来ずに溺れて沈んでしまうのだ。
不死の生命ゆえ、水の中にいても死ぬことはないが、仮死状態のまま、地上に引き上げられるまで復活は出来ない。
そして、その流れ水は、天から降る雨にも当てはまる。
雨の中では吸血鬼は動くことが出来ない。
太陽が無い夜ですら。
だから、ハンターが吸血鬼を襲うのは陽光の射す真昼か、雨の日を選ぶ。
もっとも、雨の場合は、室内で戦う場合は意味が無いが。

だが、今回は大いに意味があった。
現に、エマの目の前に佇む吸血鬼は雨にうたれて動けない。

「あはは、そこの木立の中に逃げ込まないのかい?雨は吸血鬼を酷く弱らせるのに。それとも、全身の筋肉が硬直しちゃって動けないのか」
言いながら、エマは白木の杭を取り出した。
確実に吸血鬼を滅ぼす方法。
ゆっくりとラルクに近寄っていく。

「――え?」
エマは、我が目を疑った。
この美しい吸血鬼とは、少なくとも互いの腕が届かぬほどの距離があったはずだ。
それなのに、この今、息がかかるほどの距離に美しい美貌があった…。
「そ…そんな、馬鹿な?!何でこんな……」
エマの青ざめた顔を、澄んだ黄金の瞳が見つめた。
こんな豪雨の中でこれほど素早い動きを見せた吸血鬼は出会ったこともないし、聞いたこともない。
流れ水の中で動ける吸血鬼がいるとは――!!

「あいにくと…」
白い指先が、エマの細い首筋をすっとなでる。
胸から下げた鎖がぷつんと切られ、銀の十字架は空しく足下に落ちた。
首筋に走る青い静脈を愛おしそうになぞられても、エマは抗えなかった。
「雨の中で夜を明かしたこともあるんでね」
静かに語るラルクの脳裏に、過去の光景が甦る。

痛いくらいの雨が、シェルの体から温もりを奪っていく。
どんなに抱きしめても、冷たくなっていく体に温もりは戻らない。
それでも、シェルは最期まで笑った。

「美しき吸血鬼ハンター殿。貴女に、極上の夢をあげよう」
敵であるラルクに、首筋に冷たい息がかかるほど近寄られてもエマは動かなかった。
頭の奥では悲鳴を上げ続けているが、雨で濡れた金髪が赤い瞳を最高級のルビーのように美しく映えさせている。
そして、耳元で優しく囁かれる声は、心の芯まで溶かす魔力を秘めていた。
(だめ…魅了される……!)
エマの理性は激しく抵抗し続けるも、ついに自らラルクの前に細い白首を差し出した。

「永遠に醒めない、美しい夢をね――」

ハリスはまだ生きていた。
「…本当にあんた吸血鬼だったのか」
もう、雨は止んでいる。
木によりかかってハリスは懸命に呼吸しているが、顔色は蒼白で上半身を朱に染める血の量から見ても手遅れであることは明らかだった。
「じゃあさ、昨夜の俺の第一印象も間違ってなかったんだな…。だけど、俺を助けてくれて、一緒にリュションを探してくれたことも…嘘…じゃない。ありがとよ」
そう言ったハリスの口から、ごぼっと血の固まりが吐き出された。
それを無言で見つめていたラルクが、口を開いた。
「お前…、笑っているのか?」
その言葉に、ハリスは顔を上げた。
そこに浮かぶのは、確かに笑み。
「ああ。…これで……リュションの所に行けるんだ」

好きな女の所に―――

ラルクは、目を閉じた。

シェルが死んで、村人に襲われて――本当なら私も生きてはいないはずだったのに。

「俺の血は吸わないでくれよな」
「…生憎、喉は渇いていない」
その返答に、ハリスはもう一度笑った。
「なあ、一つだけ教えてくれよ」
紙のような顔色になりながらも、ハリスの目だけはまだ光を失っていなかった。
「リュションや、村を襲ったのは・・・あんたじゃないよな?」
この少年は、あの魔物のことを知らなかった。
吸血鬼に憧れて、血を啜り続けて力をつけた、低俗な魔物を。
ラルクは頷いた。
「村を襲った化け物は死んだ」
吸血鬼、とは言わなかった。
あんなものを同族――なりかけだったとはいえ、吸血鬼だなどと呼ぶことは誇りが許さない。
「そうかい」
ハリスは、それっきり、瞼を閉じた。
そして、ひゅうっと浅い呼吸。
それが、最期だった。

翌朝、村は大騒ぎだった。
雨が止んだ墓地、リュションが眠る墓の前で、すでに冷たくなった村長の息子が発見され、森ではジムと御者の死体と、女吸血鬼ハンターがうつろな目をしながらふらふらと彷徨っているところを発見されたのだ。
服の襟で隠されていたハンターの首筋に明らかな吸血鬼の噛み跡があることから、吸血鬼騒動の犯人と断定。
村の男達の手で杭を心臓に打たれ、その灰は河に撒かれた。
そして、村長の息子は銃弾で死んだらしいことから、女ハンターに殺されたのだと村中で嘆き悲しみ、丁寧な葬儀が執り行われた。

あまりに色々なことがありすぎて、誰も、いつの間にか消えた美しい旅人のことはもう思い出せなかった―――。