「吸血鬼が、また現れた」
耳に入って来たその一言が、グラスを持つラルクの手を止めた。
辺境の小さな村にある小さな酒場。
どこにでも落ちこぼれはいるもので、朝から酒を提供してくれるその酒場は、村のあぶれ者が溜まるには恰好の場所だった。
昼間から酒を食らって、猥雑な話に興じては下卑た笑い声をあげる。
その酒場の存在に眉をひそめる人もいるが、夜は、仕事を終えた村人が一杯やりにふらりと訪れる安息の場でもある。
そして、この村を訪れる数少ない旅人の息抜きの場と情報源としても。
一日の出来事やうわさ話も、酒場で耳を傾けていれば嫌でも手に入るのは、どの村や街でも共通である。
深夜になっても活気が溢れ返っていた店内も、一人の村人がもたらしたその言葉で一気に水を打ったように静かになった。
また、犠牲者だ…!
喉を切り裂かれ全身の血を抜かれている。
今度の犠牲者は、村長の甥御さんだ!!
業を煮やした村長が、吸血鬼ハンターを雇うらしいぞ。
口々に叫ぶ村人達の声を、ラルクはカウンターの隅で聞いていた。
彼がこの酒場に入ってきたときは、女達はその美貌に歓声とため息をあげ、男達は思わず動きを止めた後、因縁をつけて身ぐるみ剥いで叩き出そうと目論んだが、ラルクの眼光を浴びただけで腰が抜けてしまい、離れたカウンター席に座る事を許してしまった。
それでも何人かはちらちらと目をこの美しい旅人から離さなかったが、突如飛び込んできたニュースのお陰で、今はそれどころではなくなった。
夕方に街道沿いを出発し、軽い休息の為にラルクはこの村を訪れたのだが、立ち寄った酒場でこんな言葉を聞こうとは。
(吸血鬼が、この村に…ね)
一寸興味がわいて、カウンターの中にいるマスターにどういう事なのか尋ねてみた。
髭面のマスターはラルクの顔に一瞬見とれて柄にもなく顔を赤らめた後、咳払いして説明してくれた。
この半年で、週に一度のペースで、村人が殺されている、と。
最初の犠牲者は、村外れの森で逢い引きしていた若い男女だった。
二人とも喉を切り裂かれ、全身の血が無くなっていた。
ただの怨恨による殺人事件かと思いきや、次の週に仕事帰りの農夫が殺された。
手口は全く同じ。遺体が発見されたのも同じ、村外れの森だった。
その次は、森の近くに一人暮らししていた老婆。
そして次は…
とにかく、老若男女関係なく、次々と襲われている。
すべて財布や金目のものには手を付けておらず、金目当てではない。
服は所々切り裂かれてはいるものの、これは犯人に抵抗した際に付けられたものと判断した。
だが、喉の傷といい、服の切り裂き方といい、刃物でと言うよりも獣の爪で付けられたような傷だと医者が判断を下すと、村人達に一つの恐ろしい仮説が持ち上がった。
喉の傷
抜かれた血液
鋭い爪の切り傷
森に引きずり込まれる犠牲者
吸血鬼の仕業だ……!
妖物や魔術が信じられるこの時代、疑う者は居なかった。
こんなことは、人間の仕儀ではない。
古来から恐れられる邪悪な魔物が、事もあろうにあの森に住み着いた…!!
その後、犠牲者が増えるに連れ、村人の恐怖心は増し、吸血鬼の存在はもはや真実となっていたのだ。
「あんたがもっと前に村に現れてたら、絶対疑われてリンチに掛けられてたぜ」
冗談めかして、マスターは笑ったが、目の中にかすかに怯えの色が見えた。
確かに、ラルクの美貌と言い、雰囲気と言い、そこらの旅人とはどうみても一線を画している。
最初に男共が突っかかってきたのは、吸血鬼へのあまりの恐怖心からだったのかもしれない。
一度、日中に森の中を自警団が調査しに行ったのだが、誰一人帰ってこなかった。
そこで、村長は意を決して、吸血鬼ハンターを雇うことにしたらしい。
ハンターの数が少ない上に戦う相手も生半可な者ではないので、報酬は高額に昇る。
そのため、容易に頼めるものではない。
それこそ、その予算だけで村が破産しかねない。
だが、このまま手をこまねいていては村は吸血鬼に全滅させられてしまう。
明日の夕刻には、腕利きと評判の高いハンターが村に到着するそうだ。
話を聞いていると、果たしてそれが吸血鬼の仕業かどうか、ラルクには判断付かなかった。
吸血するだけなら、牙を突き立てれば良いだけではないか。
何故、喉を切り裂いて、貴重な血液をぶちまけるようなことをする?
吸血鬼に見せかけた愉快犯という気がしないでもない。
だが、血の渇きからと言うよりも、人間の恐れ、怯え、泣き叫ぶ姿を見たいが為だけに人間を惨殺する吸血鬼もいる。
話だけでは判断できない。
(面白そうだな)
この村は単に通りがかっただけで、明日の夜になったらすぐに出発するつもりだったが、気が変わった。
この事件を見届けてから旅立っても遅くはないだろう。
どうせ私には時間は有り余っている。
ラルクはグラスに半分ほど残っていたワインを一息に飲み干すと、金貨をマスターに放り投げて立ち上がった。
酒場の入り口側に陣取ってだべっていた柄の悪い男共が一斉に、まるで王者を送迎するかの如く二つに別れ、その間を彼は悠々と歩いていった。
背中に、女達の欲望と男共の敵意を受けながら。
ラルクの前に、黒々とした森が横たわっている。
夜の闇の静けさも加わって、そこに化け物が棲みついていると言われても違和感がないほど不気味な雰囲気を醸し出していた。
度胸がある男でも、夜にここに入るのは躊躇するだろう。
だが、ラルクにとってはこういう雰囲気こそ心地よい。
しばらく森を眺めている内、ラルクの目がすっと細まった。
(…妙だな)
魔物は同族の気配を感じ取れる。
自分より魔力の強い者の存在は感知できない事も多いが―――彼よりも強い魔物など、そうそうそこらに転がっているはずもない。
吸血鬼の彼に。
今、目の前にそびえる森からは、微かだが吸血鬼の臭いがする。
しかし、それは今にも消えてしまいそうなほどか細いものだ。
魔力が弱い・・・というよりも、どちらかといえば残留思念に近い気配だ。
周囲には、銃を構えた屈強な男達が数人、松明をかざしながら見回りをしていた。
それをやり過ごした後、ラルクは散歩のついでに寄ったとでもいうような足取りで、深い森の中に入っていった。
細い木立で覆われた森の中は日中に陽の光も届かないらしく、土はぬかるんで空気は湿り気を帯びている。
勿論星の光も届かない闇の中を、ラルクは木立にコートの裾をひっかけることもなく悠々と歩いていく。
歩けども、強い妖気は感じられない。森に入る前と同じ、薄い妖気がたゆたっているだけだ。
ふと、別の気配を近くで感じ取った。
人間だ。
怒声と激しく争う音、獣のうなり声、銃声が聞こえてくる。
ラルクはそちらに足を向けた。
森の一角が、ぼうっと明るく光っている。
携帯用ランプが地面に転がりながらも周囲を煌々と照らしており、その傍らで若い男が小山ほどもある大きな野犬に組み敷かれていた。
猟銃で喉をかばいつつ片手で獣の体を必死に押しのけようとしているが、いかんせん体重差がありすぎる。
じりじりと牙が猟銃を押して無防備な喉に迫っていく。
若者の顔が歪んでいるのは、恐怖からか、獣の鋭い爪が両肩に食い込んでいるための痛みのせいか。
その光景を見たラルクは最初、期待していた光景ではなかったので立ち去ろうとしたが、若者が気付く方が早かった。
「たっ、助けてくれ!!」
野犬もラルクの気配を感じて、血に飢えた赤く光る目をラルクに向けた。
ラルクと視線があった途端、黒い大きな体がびくんと跳ねた。
今までのしかかっていた獲物の体から勢いよく飛びすさる。
「え…?」
今まで必死の形相だった男の顔が、呆気に取られたものに変わった。
慌ててラルクの方を振り返ったが、ラルクは現れたと同じように、その場に佇んだままだ。
その間にも、野犬は尻尾を足の間に入れて体を震わせた後、くるりと背を見せて駆け去って行ってしまった。
「何だ…?一体、あんた、何かしたのか?」
そう言ってラルクの顔を改めて見直した男の動きが止まった。
薄暗いランプの光はラルクの姿を、この世の者とは思えないほど神秘的な美しさに照らし出していた。
生唾を飲み下し、ラルクの顔から強烈な意志の力で視線をはずすと、男はまず礼を述べて、ハリスと名乗った。
「お陰で助かったよ。何だか知らねえがあの犬は逃げてっちまったし」
犬は吸血鬼の下僕とも、敵とも言われるが、力量の差は理解できる。
あの野犬は二度とラルクの前に姿を見せはしないだろう。
「それにしても、あんたは何でこんな所に来てるんだ?よそ者だろう?」
まだ17才くらいなのだろう。
幼さの残る顔が訝しげにラルクを見た後、はっと気付いたように手を打った。
「あんた、もしかして、親父が雇ったっていう吸血鬼ハンターかい?!」
ラルクが首を振ると、ハリスは残念そうに眉をしかめた。
「そうだよな。ハンターの到着は明日だって言ってたし。なら、何でこんなとこに来てるんだよ。この森に出る吸血鬼のウワサは聞いてるんだろう?」
「酒場で聞いた。その吸血鬼とやらに興味があってな」
その言葉を聞いて、ハンスはひゅうっと口笛を吹いた。
「普通の人間ならそんな化け物に近寄るどころか興味持ったりしないぜ?俺ぁ一瞬あんたが吸血鬼かと思ったぜ。野犬をひと睨みで追いはらっちまったんだからよ」
まじめな顔でそこまで言った後、今度は笑いながら
「でも、吸血鬼なら俺を助けてくれる訳ないもんな。だからハンターかと思ったんだけど…」
「そういうお前こそ、何故こんな時間に森にいる?吸血鬼が怖いのではなかったのか」
ハンスは猟銃を握り直し、転がっていた携帯ランプを手に持った。
「リュションを探しに来たんだよ」
幼なじみのリュションという少女が昼の内にこの森に入ったまま帰ってこない。
母親が病気で、森の奥にしか生えない特殊な薬草を煎じて飲んでいたのだが、吸血鬼騒ぎで森に入れなくなり、とうとう薬草も尽きてしまった。
そのため、リュションは止める母親を振りきって、こっそりとこの森に入っていった。
夜になっても帰ってこないため、心配した母親から話を聞いたハリスは、父親の猟銃を持ち出して森に来たのだ。
「先程、親父と言っていたが、お前は村長の息子なのか?」
ハリスは渋い顔で頷いた。
権力者の父親というのは、この少年にとってはあまり有り難くないようだ。
「たった一人で、吸血鬼に立ち向かうか。恐ろしくはないのか?」
冷静なラルクの問いに、ハリスは若い頬を染めた。
「女一人ぐらい守れなけりゃ、男がすたらぁ!」
その言葉に、ラルクはまじまじとハリスの顔を見つめた。
「なっ、何だよ?」
ハリスの顔が真っ赤になったのは、自分の言葉に照れているのか、ラルクに見つめられたせいなのか、本人にも分かっていない。
「…そうか」
そう呟いたラルクの顔は、ハリスには意外だった。
美しいが冷たい表情のままだった彼が、一瞬だが優しく微笑んだように見えたから…。
「リュションが行ったのは、多分こっちだよ」
そう言ってハリスがランプの光をかざした。
弱々しい明かりに照らされた地面には、微かだが小さな足跡が点々と森の奥へと続いていた。
これが、リュションの足跡らしい。
その跡をたどっていくと、ぽっかりとした空間に出た。原っぱのようになっているようだ。
「ここに薬草が生えてるんだ。リュションもここに居る筈なんだけど・・・」
ここは上からの光を遮るものがないので、ランプに頼らずとも月明かりがよく届くので視界はいい。
きょろきょろしているハリスと対照的に、ラルクはこの草原に足を踏み入れた途端、動かなくなった。
ごく僅かだが妖気を感じ取ったのだ。
今までの薄く漂うものではなく、痕跡として。
そして、風に乗って運ばれてくるこの香り…。
「おい…」
ラルクがハリスに声を掛けるのと、ハリスが悲鳴をあげたのはほぼ同時だった。
「リュション…」
ハリスの手からランプが滑り落ちた。
下は柔らかい草地なので割れはしなかったが。
月光が、草原の端の一角で木にもたれた少女の姿を青く照らしている。
虚ろな瞳は、もはや何も映すことはない。
衣服はびりびりに破れ、整った顔には、赤い爪痕が幾つも筋を引いて痛々しい。
ぱっくりと開いた喉の傷から流れたはずの血は、もう乾いている。
右手には、少女が摘んだ薬草がしっかりと握られていた。
「リュ…ション……」
とうに冷たくなっている少女の傍らに跪いたハリスの声が震えていた。
辺りには血の香りと草の青臭い臭いが混じって、不快な臭気を発している。
その光景を見ながら、ラルクは周囲の気配を探っていた。
もう、妖気は感じない。
次に、遺体に目をやった。
大量に出血した筈なのに、周囲の地面に流れ出た様子はない。
よく見ると、喉の傷跡に舐め取った様な跡があった。
血とは違う、透明な唾液のようなものが付着していたのだ。
遺体の傷跡に指先を触れてみる。
微妙な魔力は感じるが…森にはびこっている残留思念が邪魔して、犯人がどんな種族かまではさしものラルクも特定できなかった。
猟銃も投げ出して少女の亡骸を抱きしめていたハリスが、顔を上げた。
その目は真っ赤になっていたが涙は堪えていた。
遺体をそっと横たえた後、やにわに銃を掴むと、叫びながら森の奥へ乱射し始めた。
「殺してやる!出てこい、化け物!!」
乾いた音が森の中に響き、驚いた鳥がバサバサと夜空へ飛び立っていく。
ラルクが腕を伸ばして、銃身を押さえた。
「邪魔するのか?!てめえも吸血鬼の仲間かよ!」
吠えて銃身を激しく揺すったが、そんなに力が入っている風にも見えないラルクの腕を銃身から振り払う事が出来ない。
怒鳴りつけようと顔を上げた、我を失って異様な輝きを放っているハリスの目と、ラルクの静かな黄金色の瞳が交差した。
数瞬後、ハリスの両膝から力が抜け、猟銃を落として地面にへたりこむ。
続いて上半身がゆっくりと地面に伏して、瞼が閉じられた。
「リュション…」
意識を失う直前、ハリスの両目からこぼれた小さな涙が、最後の呟きと共に乾いた草地に吸い込まれていった。