人々が忌み嫌う悪魔、吸血鬼。
生者の血を啜り、生を永らえる魔物。
それに襲われ犠牲となった人間は、吸血鬼以上に忌まわしい者として呪われる存在になる。
どこにでもいそうな、ただの女だったスーザンも、その一人だった。
彼女との出会いは唐突だった。
太陽こそ沈んだものの、夜と言うには早すぎる時間に、ラルクは街の大通りをゆったりと歩いていた。
先程目覚めたばかりで、まだ頭が少々ぼんやりする。
それでも、さらりとなびく黄金の髪はいつも通り眩く輝いていたし、少々物憂げな表情は別の魅力をその美貌に添えた。
夕食時の買い物に集まっている人々がそのラルクの姿を見て嘆声を上げたり、ひそひそと話始めても、彼は気にも留めなかった。
が、裏通りに入ったところで、彼の注意を促した人間がいた。
「あんた、吸血鬼だろ?」
すれ違いざま投げられた、低く抑えた声に、ラルクは振り向いた。
人通りの少ない裏通り、買い物かごを下げた女が一人、敵意とも懇親とも呼べる視線をこちらに向けて立っている。
無言で踵を返そうとするラルクを、今度は幾分慌てた声が追った。
「ちょっ、ちょっとお待ちよ!別にあんたを始末しようってんじゃないんだからさ」
「逆にお前こそ始末されぬよう気を付けることだな」
物憂げにラルクが口を開いた。 目には、皮肉な光が宿っている。
「首筋を隠したとて、無駄なことだ。『犠牲者』よ」
一瞬で女の顔が青ざめ、片手が反射的に服の襟で覆われている首筋を押さえた。
「なっ…なにを……」
「用が無いなら、これまでだ」
もう一度背を向けかけたラルクを、女が必死で呼び止めた。
「待ってよ!あんたに頼みがあるんだ。ここであんたの正体を大声でばらしてもいいのかい?」
ため息を吐きながら、ラルクは再び振り向いた。
ここでこの女が吸血鬼がいるとだのと喚き立てたところで、誰が信じるだろう。
まさか、こんな平凡な日常の中に、そんな大それた化け物がいるはずがないと誰しも思う筈だ。
せいぜい女自身が頭の弱い病人として冷たい視線を浴びるだけ。
だから彼としては何ら痛痒は感じないのだが、それでも足を止めたのは、女の必死の声に応えてやったまでだ。
吸血鬼と知りつつ、頼ろうとしている、奇特な女を。
女はスーザンと名乗った。
この街で夫と宿屋を営んでおり、とりあえずラルクは客としてそこに宿泊することになった。
当然、余所者であり、ただでさえ人目の引くラルクと連れだって歩くわけにはいかず、宿の場所だけ教えられたラルクは、しばらく時間を潰した後、宿の宿場を訪れた。
夜の帳が降り、夕食の時間も終わり、宿が落ち着いてから、スーザンはこっそりとラルクの部屋のドアを叩いた。
「あんたに頼みがあるんだよ」
開口一番、彼女はそう切り出した。
言いつつ、ラルクの前で固く首筋を守っていた服の襟を広げた。
赤黒い点が二つ、頸動脈に沿って穿たれている。
「吸血鬼の、噛み跡さ」
そう言って、彼女は頬を引きつらせた。
「ふ、ん。『犠牲者』として口づけを受けながら、またも吸血鬼に首筋を晒すとは良い度胸だ」
そう言って、ラルクはその首筋に顔を寄せた。
反射的に身体を引こうとしたスーザンは、急に思いとどまったかのように動かなくなった。
ラルクの吐息が首をくすぐるまでに近づいたというのに。
「…す、吸うならお吸いよ。もう、あたしの人生はめちゃくちゃなんだから」
「ほう?それほど達観しているのなら、私に頼むことなどないのではないかな」
ラルクには珍しく、嘲笑では無い、からかいの言葉を出した。
その言葉で、スーザンは顔を赤く染め慌てて再び襟元を戻した。 そして、必死の眼差しを目の前の美しい魔物に向ける。
「この傷跡を消したいんだよ!あんたなら出来るだろ?同じ化け物なんだから!!」
『化け物』という言葉に、ラルクは軽く苦笑しただけだった。
吸血鬼は同族を感じ取れる。
少なくとも、意図的に気配を隠していない吸血鬼なら。
そして―――『犠牲者』もまた、もはや人ではなく、吸血鬼の眷族なのだから。
彼女は、吸血鬼を探していたのだ。
いいや、正確には、この忌まわしい刻印を消せ得る者を。
「お前を咬んだ、その吸血鬼はどうした?」
「……分からない」
ある晩、スーザンが夜中にふと眼を覚ますと、目の前に誰かが立っていた。
窓を背にしているので、顔はよく見えなかった。
分かったのは、背が高いこと、そしてその異様な雰囲気。
人間では持ち得ない、氷の塊が迫る様な冷たい圧迫感。
隣に寝ている夫を起こそうと思っても声は全く出なかった。 悲鳴すら。
闇の中に光る、二つの赤い光に見つめられたと思ったら―――そこで意識が途切れた。
翌朝、気怠い体を起こしたとき、昨夜までとは体の感覚が全く違っていた。
カーテンの隙間から覗く朝日を見るだけで眼球が焼け付きそうになった。
日中は何をするにも体が怠く、夜になると逆に目が冴え、眠るどころではない。
そして――首筋に刻印された、呪わしい二つの点を見たとき、自分自身に何が起こったか理解したのだ。
「誰にも、知られるわけにはいかない…」
教会の耳にでも入ったが最後、スーザンを待つ運命はただ一つ。
吸血鬼の犠牲者となった者は、心臓に杭を打ち込まれて灰になるまで聖なる炎で焼き尽くされる。
「ようやく掴んだ、ささやかな幸せなのよ…!」
時々怠けるが、それでも不器用ながら愛してくれる夫。
そして、神より授かった二人の子供達。
貧しいながらも、小さな幸せ――
客で賑わう宿の食堂の中を元気に走り回っていた、二人の小さな子供の姿がラルクの脳裏に浮かんだ。
「あの子達を残して…死にたくない。誰にそんな権利があるのさ!こんな思いをするのも、あんた達が血を吸ったりするからよ!!」
話すうちに激興したスーザンが、怒りで震える指先をラルクに突きつけて弾劾した。
それでも、ラルクの冷たい美貌は動かない。
「それ以来、そいつは現れないのか?」
スーザンは頷いた。 考えるだけでおぞましいと言った感じで。
「結論だけ言えば…」
世にも美しい黄金色の瞳がスーザンを真正面から見つめた時、彼女はそれが憎むべき魔物と知りつつ、一瞬息を止めた。
無意識に頬が赤らむ。
「私にその痕は消せん。その張本人が死ぬか、それとも消すかせぬ限り」
「ああ……」
ラルクの答えに、スーザンはがくりと力無く床に跪いた。
「どうして…!あんただって吸血鬼なんだろう?!それなのに、どうしてこんなちっぽけな跡くらい消せないの!!」
「同じ吸血鬼でも、魔力は個々異なるからさ」
吸血鬼が血を吸う時に穿たれる跡は、サインの様なものだ。
自分の獲物である証。そう易々と消されるわけもない。
スーザンがすがっていた一縷の望みの糸も、今切れた。
残るは―――
「いっそ、ハンターでも雇って犯人の吸血鬼を探してもらうんだな」
ともすれば裏切り者と言われかねない台詞を、ラルクはさらりと言ってのけた。吸血鬼が、ハンターを雇えなどと。
だが、今のスーザンにはそんな皮肉を考える余裕も無い。
「冗談じゃない!それこそ、『私は吸血鬼に咬まれた犠牲者です』って宣伝しているようなもんじゃないのさ!」
「それなら、話はここまでだ」
会話は終わった。
ラルクは椅子の背に掛けてあったコートに手を伸ばした。
そして、床に座り込んだままこちらに敵意の視線を向けているスーザンへ皮肉な笑みを見せた。
「我らは全ての犠牲者に傷跡を残すわけではない。お前を襲った者は、いつか再びお前の前に姿を現すために印を残したか」
それを聞いて、スーザンは襟元を両手でかき合わせて小さく悲鳴をあげた。
そんな彼女を残し、部屋のドアを閉じる間際に、もう一言。
「それとも……」
そこから先は、ごく小さな声だったので彼女には聞こえなかった。
「単なる悪趣味な種を蒔いただけか」
呟いたラルクの瞳は、もう笑っていなかった。