冷たい月明かりが、辺境に位置する村の屋根の連なりを夜の闇に浮かびあげた。
蒼白い光は、それらを見下ろす高い崖の上に佇む一つの影も照らしている。
漆黒の髪に黒いコートをまとった影は、まるで闇の中から人型に切り取ったようだ。
一陣の生ぬるい夜風が男の髪をかき乱し、端整な顔立ちにかかる。
「…今夜はいないようだな」
誰かが隣にいたとしても聞き取れないくらい小さな呟きが男の口から漏れた。
そして、微笑を浮かべた口元から覗く白い２本の牙。
禍々しい笑いを浮かべたまま崖下に踏み出そうとしたその時。
「待ってたよ」
耳障りな声が、村を見下ろしている男よりも高い位置から聞こえた。
ぎくっと男の背筋が強ばり、ついで振り返りつつ頭上を見上げた。
月光に照らされて、小柄な人影が男の前に舞い降りてきた。
しなやかな体は、柔らかい草の上に音もせずに着地する。
男が整っている顔を歪め、派手に舌打ちの音を立てた。
「ケイ！またお前か！！」
「あたしがいる限り、ご主人様に手を出させるもんか！」
ケイと呼ばれた娘が好戦的な視線で男を睨む。
大きな緑の瞳と毛皮で体の一部を覆った体の持ち主は、元気が形になったような少女だ。
顔立ちは美人と言うよりも可愛いと言った方がしっくりくるが、彼女は大人しくするよりも動いていた方が何倍も魅力的だろう。
少女が細く整った指先にちょっと力を込めると、長く鋭い爪が飛び出した。
「フン！」
血気はやっている娘を男が大仰な動作であざ笑う。
「たかが猫娘が、吸血鬼に勝てるとでも？！」
男の目に、鬼気が宿った。
「…お前がこっちの方に住み着いていると聞いて、数十年ぶりに会いに来てやったら……」
苦々しい口調で、ラルクは閉じていた瞳をうっすらと開き、
「なぁ、カイル」
弟の名前を呼んだ。
ここは村はずれにある廃屋。
いつからあるのかは定かではないが、窓ガラスは割れ、塀は崩れ、ひび割れた壁には蔦がびっしりと絡まり、おどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。
なので、村の者はお化け屋敷だとか、祟りがあるとか口々に言い立てて近寄ろうとしない。
誠に住み易い。ことに、人間とは異なる者にとっては。
そして今のこの館の主人は、何と、泣く子も黙る吸血鬼。
人の生き血を啜り、その強大な力は人間から畏敬と忌避と恐怖の対象として恐れられる。
カイルと呼ばれたその吸血鬼は、だが…兄、ラルクの前に醜態を晒していた。
ビロードのようなコートは裾がほつれ、きちんとセットしてあったであろう黒絹のような髪は嵐に直撃でもされたかのようにぼさぼさ、極めつけは、憮然とした表情を張り付けているすべすべとした白い肌には赤く細い線が３本か４本まとめて幾重にも引かれて、小さな血の玉が浮いていた。
痛々しいほどのひっかき傷だ。
「魔族の中でも畏怖されるべき誇り高き吸血鬼ともあろうものが、化け猫なんぞに…」
情けない、とラルクは呆れ顔で頭を降った。
その動きに合わせて、辺りに金色の光が舞ったような気がした。
眩いばかりに美しい金髪が、部屋のランプの明かりを反射したのだ。
彼、ラルクもまた吸血鬼。
黒髪黒目のカイルと違い、彼は髪も瞳も金色だった。
いかにも、プライドが高く派手好きな兄貴向けだよな、とカイルは時々思う。
顔立ちも、カイルだって余裕で美形の上位入りになるほどだが、ラルクにはまだ叶わない。
革張りの椅子にゆったりと腰掛け、優雅な動作でワインを口に運ぶラルクの姿は、惚れ惚れとする程絵になっている。
まさに天与の美貌と言い、物腰と言い、完璧だ。
今その美貌は、軽蔑の表情を作って出来の悪い弟を睨んでいる。
「説教しに来たんならさっさと出てけよ！」
傷の痛みと、呼んでもいないのに押し掛けてきた兄のイヤミのダブルパンチに眉をしかめつつ、カイルはあちこち破れかけているコートを脱いだ。
召使いが音もなく現れて、コートを受け取って去っていく。
外から見ればどう見ても廃屋でしかない屋敷だが、中は豪華なものだった。
床には柔らかな絨毯、広間には立派な応接セット、割れているはずの窓は一点の曇りもなく磨き抜かれ上等なカーテンが掛かっている。
そして、気の付く召使い。
全て、カイルの魔力のなせる技だ。
人間を支配するよりもひっそりと静かに過ごす事を好む彼は、ここでもう数百年ほど暮らしている。
たまに村を通る旅人の血を頂くこともあるが、傷跡は消して記憶も消し、痕跡は残さない。
そんなカイルが、今は一人の村娘の血潮を狙っているという。
ところが、あの猫娘が毎晩邪魔をするのだと。
だが、いくらカイルが吸血鬼としてはボンクラだとしてもたかが化け猫ごときにいつも撃退されるなど、どう考えてもおかしい。
ラルクは首を傾げるが、
「いーんだよ。俺はあの猫娘と遊んでるだけなんだから」
カイルはそう言う。
「それにしては生傷多いな」
不信の眼差しのまま、ラルクは椅子から動かず、空になったグラスを宙に差し出した。
またも何の気配もさせず、無表情の召使いが現れて深紅の液体をグラスに注ぐと、完璧な礼儀を保ったまま姿を消す。
「だいたい、ずっと音沙汰無かったくせに、何でいきなり来たんだよ」
ラフなベスト姿になったカイルがラルクの正面の椅子に腰を下ろし、同じワインを召使いに頼んだ。
「ふ……」
氷のようだったラルクの視線が、ふっと緩んだ。
「久しぶりにお前に会いたくなってな」
「え………」
どきっとした。
いくら血縁とはいえ、魔族は全般的に肉親への情はそれほど重要視されない。
それは吸血鬼とて同じ事。
彼らは群を造らず、一人で行動することを好む。
ラルクも、ずっと一人で人間社会の中に紛れて生きてきたはずだ。
情に薄いと思ってきた兄貴も、肉親への思いはあったのか？
そうカイルの胸が熱くなったのもつかの間、
「たまたまこの近くを通ってたら、運悪く吸血鬼ハンターに襲われてしまってな」
ん？と思ったカイルを無視して、ラルクの言葉が続いた。
「卑怯にも真っ昼間の寝込みを襲われてな。返り討ちにしてやったけど、心臓スレスレに白木の杭を打ち込まれて、まだ傷が痛むんだ。で、ふとお前がここに棲んでるってウワサを思い出してさー」
しばらく養生させてくれ、と明るく語られて、カイルは開いた口が塞がらなかった。
の後、ぷちっと切れた。
「さっきは偉そうに説教タレたくせに！！ぬわにが誇り高き吸血鬼だあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ！」
「あああっ！このヤロ！怪我人に何をする！！」
派手な物音をよそに、召使いが３人またもどこからか現れて、黙々と割れた食器類や調度品を片づけている。
誇り高いはずの吸血鬼二人の低俗な戦いは、夜が明けかかるまで続いた…。