黄金と赤の吸血鬼。二人の旅は当てもなく続いた。

当てもなく──?

いいや。
ライにとっては、この美しい先輩吸血鬼は風の吹くままに行き先を変えているようにしか見えなかったのだが、そうではなかった。
ラルクは、ライを導いていたのだ。
約束された地へ。
約束を交わした相手の元へ。

「なぁ、こんなところに何か用でもあるのかよ」

続くライが愚痴を垂れた。
彼がラルクに付き従う理由は、彼個人に魅せられたこともあるが、彼が旅の果てに何処に行くのかを知りたいと思ったからだ。
それなのに、彼はどんどんと辺境へ向かっていく。
幾つもの山の向こう、都とは縁のない田舎へ。
こんなところじゃ、わくわくする事に出会えるはずもないじゃないか。
そう不満を抱くライ。
おやおや、それこそ疑問に思うべきであろうに。

わくわくしたい?

そんな感情こそ、彼はかつて己の手で、己と両親を汚した村人と共に「殺した」筈だのに。
そんな彼を、ラルクの黄金の瞳はただ一瞥するだけだった。

 

 

深い森を抜けた道の先、流れる大きな川の上に、丸太橋がかかっている。

「…!」

ライの顔がさっと強張り、足が止まる。

流れ水

それは吸血鬼にとって忌避すべきものの一つ。
吸血鬼は泳げない。
それどころか、清浄なる水は不浄なこの身を浮かせてもくれないのだ。
一旦落ちてしまえば、自力で逃れるのは困難を極める。
待つのは溺死寸前の苦悶。
水から脱出出来るまで、それは延々と続く拷問。
知識として知っている訳ではないが、本能がそうライの脳髄に叫び続けている。

近寄るな

ふと見れば、黒衣の後ろ姿は足を止める事無く子供の胴ほどしかない丸太橋に今まさに足をかけようとしているではないか!

「お、おい?!」
「来ないのか?」

振り向きもせずラルクはそう言い放ち、まるで平地を行くかの如く、すたすたと川を渡り始めた。

「……!!」

吸血鬼が水を拒むのは本能だ。
それはこの黄金の吸血鬼とて変わらぬはず。
それなのに──

「わ、分かったよ畜生!」

自暴自棄の叫き声を張り上げ、彼はフードを頭からはずした。
負けたくない。
見下されたくない。
ここで放り出されるのは御免だ!
ずんずんと川辺へ近寄り──丸太橋の寸前で、感情とは裏腹に足が止まる。

「……」

下には、ごうごうと音を立てて流れる黒い水。
人間ではない──
人間でなくなった時に、無くしたと思っていた感覚。

恐怖

(…くそ、あの時は平気で渡れてたってのに!!)

不意に思った言葉に、ライ自身が驚いた。

あの時?
あの時って……何だよ?

自分で自分に問いかけてみるが、答えは出てこない。
なのに、形を成さない記憶の破片がライの心を惑わし続ける。
はっと顔を上げると、静かにこちらを眺めやる黄金の双眸と視線がぶつかった。

「……」

口を開きもせず、表情を変えるでもなく、向こう岸にいる彼はただ、ライを見つめているだけ。

「…っ!」

今の自問自答の間ですらも、流れ水に臆していたのだと思われた──!!

そう思うと、かあっと頬に血が上るのが自分でもはっきりと分かった。
やっとの思いで傍にいる事を許されたこの黄金の同族に、腰抜けと見捨てられるなんて耐えられない!!

自我に目覚めた幼子の様な感情の勢いに任せ、丸太の上を駆ける様に渡り始める。
下を流れる黒い水を、脳髄を掻きむしる不快な水音を、目と耳から閉め出して。

──昔なら、水音が逆に安心できたのに

またしても唐突な思いが心を過ぎり、思わずライは目を開けた。
開けてしまった。

「…うあっ!!」

眼下一杯に広がる水の流れが、一瞬でライの脳を、恐怖を、支配した。
本能に逆らえず硬直した足の片方が、細い丸太からずるりと滑り落ち――

「わああああ!!」

最強とまで謳われる吸血鬼『ユダの子』の口から、本心からの悲鳴が迸った。
死よりも滅びよりも尚恐ろしい、永劫の恐怖に逆らえる者などいやしない。

「うわっ?!」

視界が暗転した次の瞬間、したたかに背中を打ち付け、ライの肺はまるごと空気の固まりを吐き出させられた。

「ぐぅっ…はぁっはぁっ…げほっ……はっ……」

仰向けに転がったまま舌を突き出し、犬の様に荒い呼吸を繰り返す。
何が、どうなったんだ?
流れ水に呑み込まれるはずが、どうして今、こうして息をしていられる――?

ようやく濁った視界が開けてきた。
二・三度目をしばたき、朦朧とする頭を覚醒させて起きあがろうとしたライの前に、二本の黒い足があった。
それを包み翻る黒いコートも。

「あ……」

月明かりと共に、黄金の視線が冷たく彼を見下ろしている。
そう、確かに重力に抗えず落ちたはずのライの身体は、いつの間にか丸太橋の向こうへと運ばれていたのだ。
誰の手で?
考えるまでもない。
どうやって?
それこそ、考えても意味がない。
どうして──?

「行くぞ」

たかが橋を渡る事も出来ぬ同行者を、見捨てるでもなく、かと言って暖かみを感じさせるでもなく、ラルクはただ一言だけかけると再び歩み始めた。

「ま、おい、待ってくれよ! ラルク!!」

ようやく状況を飲み込み、ライは慌てて立ち上がった。
その頬が軽く緩んでいるのは、たった今己が晒した醜態への恥辱よりも、それを凌駕する感情――

「…へへっ」

どんな理由があるのかは知らない。
だけど、この事実だけは変わらない。
以前の街道での出来事はラルクの保身もあった筈、と甘い考えを戒めていたが、今のは違う。
こんな自分でも、助けてくれる相手がいる──
それは、人間を憎み続けて甦った吸血鬼が抱くにはあまりにも、不自然な感情。
そんなものを知ってしまっては、もう「化け物」には戻れぬであろうに……。

 

 

「着いたぞ」

進む内に木々が拓け、昔は整備されていたのであろう──
今は、所々焼け跡が残り、それを更に覆う様に雑草が生い茂る街道を進んだその果てで、ラルクは軽く振り向き、同行者へ告げた。

「え?」

キョトンとする赤毛の同族をそのままに、また前へと向き直り、もう一度告げた。

「来たぞ」

半ば以上が欠け、弱々しい月の光は、それでも彼らの前に佇むひとつの影を浮かびあげた。
何もない荒野の真ん中に、ぽつんと立つ少女の後ろ姿を。

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ラルクの声に、彼女はゆっくりと振り向いた。
目の前の二人の男の姿を見て、驚くどころか、穏やかに微笑み言った。

「お帰り、ライ。ありがとう、ラルク」
「……?」

名前を呼ばれ、ライは怪訝気に少女と、自分の傍らに立つラルクを見やった。
白い月に照らされた美貌の横顔は、ライを完全に黙殺している。

「お帰り」

少女はもう一度ライに向けて告げた。

「…なんだよ、お前…」

自らも人間ではないライには分かる。
の前のこの少女は――生きていない。
だが、死んでもいない。
狭間で揺れる、中途半端な存在の生命。
そんなやつが、何で俺を――

「ミナ…?」

意識せず口からこぼれ出た一つの名前に、ライ自身が驚いた。

「お帰り、ライ」

ミナは三度目の「お帰り」を告げ、満面の笑みを浮かべた。
きらりと輝くその笑顔に、彼は覚えがあった。
遠い遠い昔、子供の頃、こんな笑顔を見た。

「約束、したから」

そう、ミナと呼ばれた少女はライの前につと歩み寄った。

「お前…」

感情なんて無くしたはずの心臓が、胸の中から飛びださんとばかりに暴れ始めた。

痛い

「ここで待ってるって」

救ったのか、救われたのか。
殺したはずの、人であった時の記憶が軋みを上げて脳の中で沸き返る。
落ちかけたあの川は、かつては穏やかに水をたたえていた小川?
この村を出る時、交わした約束。

「お前、あんな約束を、ずっと……?」

恐る恐る差し伸べたライの手に触れた途端──
彼女の姿は、さあっと白い灰と化した。
華奢な指先から。
顔は、最後まで微笑んだままで。

「あ……ああ……」

ライの指の隙間からこぼれ落ちる砂の固まり。
たった今まで、少女の微笑みを浮かべていた灰燼。

「ミナ!  ミナ!!」

その前に膝をつき、両手でその塵を掻き寄せ、哀れな吸血鬼は少女の名を叫んだ。
それで彼女が甦るのではと言うかの様に。
ぽたぽたと、その上に滴る赤い色。

「これは、あんたが…?」

赤い眼に血の涙を浮かべるライの言葉に、ここへ彼を導いた男は静かに頷いた。

 

いくつの秋を遡った頃だったろう。戦禍の嵐が通り過ぎ、後には死と静寂だけが残されたこの村をラルクが訪れたのは。
怨念と悲哀が漂う地を、何の感慨も抱かずに通り過ぎようとした彼は、息も絶え絶えの娘を見つけた。

「わたしは…まだ死ねないの。お願い。助けて……」

彼女が苦しい息の元で告げた思いは、単なる命乞いではなかった。
だから、彼も足を止めた。

「ライと…約束したの。私が待ってて…あげないと………」

人形を取られ、泣いていた女の子。
誕生日にやっと買って貰えた、大切な人形。
そこに無言で現れた、目にも鮮やかな赤い髪に青い目の少年。

まだここも、『ユダの子ら』の伝承が色濃く残る地。
悪童共の標的はそちらに代わり、何の抵抗もせずにいつも通り暴力と暴言の洗礼を受けた少年は、切れた唇を乱暴に拭うと悪童共の去った方へと赤い唾を吐いた。
そんな彼の姿を、少女は人形を抱きしめたまま見ていることしか出来なかった。

「あ、あの…」

少女の方を見もせずに立ち去ろうとした彼の背中に、少女は初めて声をかけた。
母親からは、この子に近寄っちゃいけないときつく言われていた。
あの家族は、異端の血筋。
あの子の髪と目をご覧。
あれは、吸血鬼の目だから。
でも──

「助けて、くれて…ありがとう」

今にも消え入りそうな少女の声に、少年は肩越しにちらりと振り向いた。

「あなたは、吸血鬼だって……」

少女の言葉にも、少年は動じなかった。
もう慣れっこなのだろう。
生まれてこの方、ずっとぶつけられてきた言葉なのだから。

「別に助けたわけじゃないや」

そう言い捨てて、乱暴な足取りでその場を立ち去ってしまった。

「髪と目の色だけで吸血鬼になれるんだったら…今すぐにだってなってやらぁ」

血を吐くような呟きだけを最後に残して。

村のはずれに流れる小さな小川。
彼は、ここがこの村で一番好きだった。
そこに辿り着くには鬱蒼とした森を抜けなければならず、あまり近寄る者はいないから。
誰にも会いたくない。
一人きりなら、呪詛の言葉も石つぶてもぶつけられはしないのだから。

だのに、そこに何時の頃からか先客が来るようになった。小脇に人形、片手にはベリーの詰まった手かごを下げた、同い年くらいの女の子が。
最初はおずおずと、少年の姿を見るやいなや差し入れだけ置いて、慌てて逃げてしまっていたが。
少年の方はそんな彼女に戸惑い、さっさと追い払おうとした。
手かごをわざと目に付くようにひっくり返しておいたり、あからさまに無視したり。
それでも…いつ頃からだろう。
少女が本来のものであろう明るい笑顔を向けるようになり、少年が少女の来訪を心待ちにするようになったのは。
吸血鬼の伝承も、呪わしい偏見も、この少女との間にはもう存在しなかった。
けれど人々に根付いた恐怖は大きく、とうとうこの村も立ち退かねばならないと言う前の日、彼と彼女は最後に約束の場所で落ち合った。
こわごわ少女の手に触れるライの指を、彼女はぎゅっと握り返した。

「もう、会えないの?」
「うん、多分」
「……一生?」
「うん」
「でも、私は会いたい」

少女の言葉に、驚いて彼は顔を上げた。

「ねぇ、いつか戻って来て。それまでわたしはずっとここで待ってる」

初恋は、麻疹のようなもの。
一瞬で消える朝露よりも儚いものなのだ。
だから、ライは忘れた。
それでなくても、他人と関わることを恐れ憎んできた生涯なのだから。
正確には、忘れようとしたのだ。
両親以外が初めてくれた温かい感情を。
僅かな希望は絶望より惨めになる。
だから要らない。
だから忘れた。

そして──
今、彼は戻ってきた。
運命は、黄金色の美しい魔性の形となって、少女との約束を成就させたのだ。

「お願いだ…」

ラルクの前に膝をつき、ライは赤い頭を下げた。

「頼む! 彼女を甦らせてくれ!! あんたなら…出来るんだろう?!」

ざぁっとその赤毛を薙ぐ風に、少女の灰燼が一片たりと吹き飛ばされぬ様その身に抱え込み。
ライの懇願に、ラルクは顔の筋ひとつ動かさなかった。

「彼女が、それを望むか?」

表情と同じく、美しく揺るぐことのない声。

「………」

「『人間』として本来の姿に還った者を、お前は再び呼び起こすのか?」
「………」

果たされぬ約束を抱え死にたくないと願った少女。
吸血鬼であるラルクがその首に接吻を与えれば、彼女は新たな生を得ることが出来る。
が、それは同時に、『人間』であることを放棄することに他ならない。

瀕死の彼女にとっては、そんな事は関係ない。
ただ、恋した少年を待っていたかった。
あなたを待つ人がいるのだと。
約束を果たしたのだと笑顔で告げたいだけだ。
確たるものは何もない、幼い頃に交わした、ただの口約束。
相手はもう忘れているかもしれない。
この世にはいないかもしれない。
それなのに、そんな曖昧な約束のためだけに、お前は生に縋るのか?
そう問う旅の男を、少女は迷いもなく見返した。
きっと忘れているでしょう。
生きているかも分からない。
だけど、それでも構わない。

わたしは、ライを待ってる──!!

だから、黄金の吸血鬼は彼女の願いを聞き届けた。
ほんの気まぐれか。何か、心に思うところがあったのか。
それを推し量れる者は誰もいない。

助けるわけではない。
だが、お前の願いを叶える為に生命を与えてやろう。
待ち人が来るまでの、かりそめの命を。

なんと残酷な願いの叶え方。
そこまでして約束を守った行く末を見る事は許されないのだから。
だけど少女は微笑んだ。
月の光だけで生き長らえる、ただそれだけの存在に身を堕としても、それは彼女の望んだ姿。
待つ相手がいるのは、幸せだから。
一人じゃない。
遠いあの日に交わした約束が、わたしにはあるもの。
ねぇ? ライ……

 

 

「約束…か」

宿の薄汚れた窓から街の灯を見下ろし呟くラルクの瞳に、珍しく感情の波が揺れた。
愛した女と共に行く約束も叶えられず、ただ、形を成さない夢だけを追う己が身を憂いてか。
らしくもなく他人事に深入りしたせいか。

端正な唇をよぎる微笑は、自嘲か、それとも──

もう東の空は明るくなってきている。
軽い眠気を覚え、彼はカーテンを引くと軽く頭を振ってベッドへと横たわった。
瞼の裏に浮かぶのは、緑の丘で彼を待つ、愛しい恋人。

今宵は、遠い夢を見る事になりそうだ。