「あんた、俺のことを最初から『ユダの子』と言ったな。やっぱり、「コレ」のお陰か?」
そう言って、ライはくしゃっと自分の赤毛を指で掻き上げた。
その拍子に彼の前髪から滴った生臭い液体が、足下の草にぴちゃっと跳ね飛ぶ。
「…その死体の傷跡。そんなものを付けるのは、『ユダの子』だけだ」
男の視線を追って、ライも自分が殺した、かつての隣人の死体を見下ろした。
五肢をばらばらに引き裂かれた者、首を引きちぎられた者、その中に混じって、奇妙な死体があった。
渇望のままに血を吸った、干からびた死体。
その首筋には、二つの牙の跡に並ぶように、「XXX」と言う刻印が穿たれている。サインのように。
そう、これこそが、『ユダの子ら』が残す、決定的な証拠。
死後の人間が変化して生まれる吸血鬼の中では最凶と称されることもあるこの種族は、たったひと噛みで犠牲者の血を一滴残らず吸い取ることが出来、そしてその後には、必ず「XXX」という傷跡を残す。
この奇妙な刻印は、ローマ数字の30を表す。
すなわち、神の御子を売ったユダが、その魂と引き替えに得た銀貨30枚に由来する数字。
が、ライはそんな事までは知らなかったし、今指摘されるまで、自らが刻印した傷に全く気が付かなかった。

「ふ…ん。見たところ、お前は「生まれた」ばかりか」
黄金の瞳が微かな興味の色を示したが、それもすぐに消えた。
「なら、せいぜい気をつけるがいい。あまり派手に殺し回って、ハンターなんぞに討たれぬようにな」
今度こそ、会話は終わりとばかりに彼は背を向けた。
「ま、待ってくれ!あんた、名前は…?!」
悲痛とも言えるライの叫びに、闇に溶け込もうとした相手の口元が少しだけ動いた。
血の香りを伴った夜風が、その声をライの元に届けてくれた。

ラルク

ラルク、と言う名を。

 

 

首筋に走った鈍い痛みに、女は濃い目の化粧を施した顔を一瞬歪めたが、それもすぐに喘ぎの表情へと変わった。
わななく両手が、今まで絡めていた彼の肩からだらりと垂れ下がった頃に、ようやくラルクは唇を離した。
女の細いうなじを伝う赤い滴を白い指先で拭うと、後には目立たぬ小さな傷しか残らない。
未だ夢見るような表情の彼女をその場に残し、彼は路地の暗がりを後にした。

しばらく経って仲間の商売女に声をかけられるまで、女は何故自分がこんな所に座り込んでいたのか、どうしても思い出せずに首を傾げることになる。

久々の「食事」を終え、彼は満足だった。
処女の血でないのは残念だが、あまり贅沢は言えない。
昨日は、街道沿いの小さな村の墓地で昼の眠りを過ごした後、目覚めの血潮をと思って起き出してみれば、予想外にも「先客」とぶつかってしまったのだから。

初めて見る町並みを眺めやりながら、ラルクはのんびりと散策を楽しんだ。
…が、ふと、異質な視線が神経の端に引っかかった。
彼の美貌は、比較的人が多い街中でも一際目立つ。
人間共の憧憬と感嘆の視線はいつでもまとわりつくし、たった今すれ違った夜会帰りとおぼしき夫婦連れも、ご婦人の方がこちらを振り返ってため息をもらしていたりする。
が、今感じている、この気配は――
秀麗な美貌に、少しだけ不興の相が浮かんだ。
どうやら、厄介なお荷物を背負ってしまったらしい。

薄汚いボロ布を頭からすっぽりと被った浮浪者風の人影は、慌てたように目の前の路地へと駆け込んで、すぐに立ちすくんだ。
「あっ…?」
道は、すぐに行き止まりにぶち当たっている。
そして、確かに今そこに入っていったはずの人影は、影も形も見えなかった。
明らかに動揺し、せわしなく辺りを見回していると、

「誰を捜している?」

誰もいない筈の空間に突如声がわき起こり、ローブの影は飛び上がった。
その拍子に被っていた布が頭からずり落ち、目に鮮やかな赤い髪を夜気にさらした。
キョロキョロするライの目の前に黒い霧が音もなく流れてきたかと思うと、あっという間に人の形に集約した。
「そんなに驚く芸当でもあるまい」
この世で最も美しい姿に。
「い、いや…その……あんたがあそこから来るなら、絶対この街だろうと践んで……」
まるで教師に悪戯を見つけられた生徒のように、しどろもどろに弁解の言葉を紡ぐライの姿は、一晩で村を一つ壊滅せしめた凶悪な吸血鬼とは思えない。
が、ラルクはそんな彼に、相変わらず冷ややかな視線を返すだけだ。
「……」
身を締め上げる冷たい無言の圧力に耐えかね、ライは、胸に溜めていた一言を吐き出した。
「た、頼む!俺を一緒に連れてってくれ!!」
いきなりの懇願に、ラルクは眉をひそめた。
「じ、実はお、俺、あんたに惚れこんじまったんだ!」
魔性として生まれ変わり、目醒めてからはただただ憎悪と渇きのままに突っ走り、殺しまくった。
血の匂いに酔いしれた。
このまま、心の芯まで魔物と化すはずだった。
理性も感情も、暗い欲望に呑み込まれて。
そんな時に出会った、出会ってしまった美しい同族。
蒼い月明かりに照らされたその姿は、ライを一目で虜にし、誘蛾灯の様に彼を惹きつけて止まなかった。
一緒に行きたい。
彼が何者でどこに行くのか、見たい、知りたい。
ラルクとの出会いは、皮肉にも、ライの人間的な感情をその身に留めてしまったのだった。

「寝言は、昼の眠りの時にでも言うがいい」
ライの懇願をあっさりと拒否し、ラルクは踵を返した。
「二度と私に関わるな。小僧」
「あっ…、まだ名乗ってなかったな。俺の名はライだ!もう、人の名は通用しないのかもしんないけどよ」
黒い背中が、ぴたりと止まった。
「ライ…?」
再び振り向いた彼のその反応に、告げたライの方が驚いた程だ。
湖面に石を投げ込んだようなさざ波がラルクの瞳に広がった気がしたが、それもまた一瞬のこと。
そして、
「…いいだろう」
冷たい声と表情のまま、それでもその言葉の意味に気づいたライは呆気に取られ、次に、感激のあまり両手を打ち鳴らした。
「ほ、本当か?!連れてってくれるのか?」
「ついてくるのは、お前の勝手だ」
ラルクを知る者がいれば、これは驚くべき展開だった。
いかな気まぐれな彼とは言え、たった今否定したはずの事柄を翻すとは!
それも、一人気ままが身上の彼が、旅の供を許すとは――!!

月光に冷たく照らされたラルクの横顔は、そんな疑問への答えも、何も、語らなかった。