わたしが掲げるカンテラだけが唯一の光源である、ほぼ闇に近い空間に浮かぶ影。
だけど、わたしはその姿をはっきりと見ることが出来ている。
暗さに目が慣れただけか、否。
冷たい石畳に膝をつき、目の前で横たわり昏々と眠り続ける顔を、私は、ただ見つめていた。
そうする事しか出来なかった。
だってそれは、少しでも触れれば崩れてしまいそうなほど儚く希有な美しい姿だったから――

とうの昔に打ち棄てられたとおぼしき古びた教会。
それは吸血鬼が眠るに相応しい。
神に忌まれ刻に拒まれる、この魔物に。

ぽたり。
知らずわたしの眼から熱い雫が垂れて石の床に染みをつくる。
涙。

どうして思い出してしまったの。

傷だらけの足を庇って抱き上げてくれた腕がそこにある。
柔らかく包み込んでくれた夜色のコートも。

彼をわたしは求めてきた。
親の敵として。
そして―― 愛する人として。

「ラルク…」
呟いた名前は、忘れたくて忘れていた、忌もうとした人のもの。
両親の仇である男の名。
そして――

「……何故、躊躇った?」

わたしの愛した人の名――

どれくらい彼の傍らに跪いていたのだろう。
恐れていた時が訪れた事を、開かれた瞼から覗く黄金の瞳が告げていた。
ああ、吸血鬼の目覚めの時刻が、私の終わりの刻が、きたのね――

何故?
何故?
何故?

何故、わたしは…躊躇った?
彼に問われ、諦めと覚悟で静かだったわたしの心は再び揺れ始めた。
親の仇を殺すため、吸血鬼を滅ぼすために生きてきた。
頼るものない幼子が一人で生き延びるために、文字通り血を流してきた。
そこまでして彼を追ってきたのは――

この期に及んで認めたく無い『何故』は、『どうして?』へと変わった。

どうして?
どうして?
どうして?

どうして……

煌びやかな金の前髪がさらりと揺れて露わになったのは、氷の様に怜悧で冷たい表情。
そうよ、目の前にいるのは、人間の生き血を啜る悪魔だ。
美しさに惑わされるなかれ。
唇をきつく噛み締める。その痛みでさっきまでの迷いを振り払うために。
思い出して、あの惨劇の夜を。
彼はわたしの両親を殺した…そう、殺したのよ――

「どうして、私の両親を殺したの…?」
震えを隠せないわたしの声は、まるで囁く様に小さい。
「どうして…?あなたは、わたしの母さんの血を吸った飢えた吸血鬼だったはず。父さんを惨く殺した、悪魔…」
それでも、彼の耳には届く。
「冷たい冬の空気の様な名前…。氷のような血を持つ人が、どうしてあの時子供を助けたの…?」
飢えた獣に襲われ、あの時わたしは死んでいた筈だったのに。
「どうして、森に住んでいた一家を襲ったの…?」
何の感情も見せなかったラルクの眼が、初めて感情を見せて揺らいだ。

「……お前は…あの子供か」
覚えていた!!

彼の言葉に、凍り付きかけた私の血が一気に沸騰した。
腰の銃を抜き、彼に向かって突き付けた。
「覚えていたのね。もう、二十年以上も前の話だと言うのに。それなら…それなら…答えてよ!!どうしてあの夜、両親を襲ったの!」
彼の左胸へ照準を定めた銃口がぶるぶると震える。
「どうして、子供だけを助けたの…見逃したのよ!!」
ずっと胸に抱え込んできた問いの答えを、ようやく得られる。
恐ろしい吸血鬼が、自分をどうして見逃したのか。それどころか、優しさを見せてくれたのか。
全てはこの男が弱者にかけた気まぐれだったのか。
ならば何て残酷な仕打ち。

目の前の吸血鬼はわたしの弾劾に沈黙したまま動かない。
わたしがこの引き金を引けば、不死を謳う夜の化け物と言えども無事では済まない。
銀の弾丸は無力な人間が作り出した数少ない対抗手段の一つなのだから。
とはいえ、こんなに震えていては当たりっこ無いと見抜かれているのか。

(落ち着いて…震えを止めるのよ……!)

頭の隅でそう叱咤するのを、もうひとつのわたしの声が穏やかに遮った。

(ようやく会えた)

万感の想いを込めた真実の声に、わたしはもう逆らえなかった。
「あ……」
全身から力が抜け落ちていく。
ずっとずっと追い続けて、人と吸血鬼との血や怨嗟に塗れ蔑まれ、のたうちながらも耐えてきた日々の全ては、この時のために。
すぐ目の前にいる。

「まるで恋してるみたいだな。そのバンパイアによ」
以前、同業者のマークにからかわれた事があったっけ。
生まれて初めて、誰かを恋い焦がれた。
わたしが恋した、金色の旅人――

VH3-1

「いや、いや!いや!!」
わたしは杭も銃も放り出して彼の懐に飛び込んでいた。
ずっと追い続けた。
心の底から呪い、そして―― 限りなく愛おしかった人。

「もう一人はいやなの!わたしをひとりぼっちにしないで!!」

しがみついた胸は昔と同じ、大きかった。
寒さに震えた身を優しく包んでくれたコートの感触も同じ。
ラルクのシャツに頬を押しつけるわたしに彼の困惑が直に伝わってくる。

あの時と一緒。
散歩のついでと言いつつ、無力な子供を家まで送り届けてくれた、月のきれいな夜。

飲んだくれの父。
他の男へと溺れる母。
わたしの存在なんていつも無関心で、時に手をあげてくる両親から逃げたくて一人暗い森で泣いていた。
誰もわたしなんて見てくれない。いっそ消えてしまいたい。
それでも―― 死にたくなかった。

「吸っていい!私の血を吸っていいから…だから……!!」

連れて行って!

声にならない叫び。
溢れる感情。
孤独には慣れているはずだった。
ううん、それは強がり。
独りが好きなんじゃない、彼と一緒にいたかった、ただそれだけ。
一刻とはいえ私の側にいてくれた彼と。
もう一度会いたかったの。あの夜の出来事が夢で無い証に。

「クリス」

思わず顔を上げた。

「覚えて、いたのね…」

わたしの名前を。
子供だったわたしが告げた名を。
あの夜、森の中であなたに助けられた子供なのだと――

わたしを見下ろす表情も、あの夜と同じ。
人間離れした美しい顔が浮かべる、人間じみた表情。
さっきまでの冷たさは消え、涙で濡れたわたしの頬を、彼は両手で包んだ。
黄金の瞳が微かな笑みをたたえてわたしの視線と絡み合う。

「美しくなったな。小さなレディ」

新しい涙が私の両目から溢れた。
それは、あの時の二人しか知らない言葉。
冷たい冬の空気を思わせる名前をした人と交わした会話。

「ラルク……」

もう、このまま殺されてもいい。
血を吸われてもいい。
わたしは涙で濡れた目を閉じた。
このまま、素敵な夢を見たまま――

突然わたしの身体がふわりと浮いた。
驚いて目を開けると、ラルクがわたしを抱えながら壁際まで身を翻していた。
その直後に風を切る音がして、さっきまでわたし達がいた場所に数本の矢が突き立った。
ラルクを見上げると先ほどの柔らかかった表情は消え失せ、厳しい視線が部屋の出入り口へと向けられていた。

入り口から松明が投げ込まれ、ぱっと室内が明るくなる。
その明かりに浮かび上がった見覚えある人影に、わたしは叫んだ。
「マーク!」
「動くなよ。少しでも動けば、女ごと心臓を貫いてやる」
マークとその手下達が構える、鈍く光る銀の矢がつがえられたボウガンが、ずらりとわたし達に向けられていた。
「マーク、あなた…!」
「残念だったぜぇ、クリス。一度くらいは抱いてみてぇって思ってたのに、先に吸血鬼に抱かれちまうなんて」
下卑た笑いに手下達も追従する。それでも照準は狂わない。
「お前が黄金の吸血鬼とやらにあんまり執着してるから、俺も調べてみたら驚いたぜ。
そいつ、表立っては騒がれないが裏じゃえらい大物じゃねえか。そこいらの吸血貴族なんて雑魚にもならねえ。
お前が執着するのも無理はねえ。だが、もう逆に食われちまったらしいな」

「ふざけないで!」

「ああ、そうそう。その金髪野郎だけで十分な見返りをいただけそうだが、『犠牲者』になったお前の分もこの街に請求するから安心して滅びてくれや」
「わたしは吸われてないわ!!」
ラルクの名誉のために叫んだわたしの言葉を保身と受け取ったのか、マークが再び嘲った。
「そんなこたぁ関係ねえんだよ。ほれ、吸血鬼とそんないちゃつくとこを見せつけながら、まだ人間だって言い張るってか」
こいつ―― !
そうだ、こいつらはこんな手口を好む下衆だったわ。
首を刎ねてしまえば、口づけの跡も分からず本当に『犠牲者』だったのか確認が難しくなる。
『犠牲者』に堕ちた吸血鬼ハンターをも始末した、となれば、賞金と戦歴は跳ね上がるだろう。

ラルクの腕を振りほどこうとして、逆に強く抱き留められた。
「武器を取る前に撃たれる。動くなと言うなら従っておけ」

わたしの銃は、杭と共に足元へ放り投げられたままだ。
あまりの愚かさに、ぎりと奥歯を噛んだ。
何て馬鹿。
こんな体たらくで吸血鬼ハンター?笑わせる。
武器を手放し吸血鬼に庇われ……

でも一瞬

このまま、でもいい

そう思った。
わたしの身体を抱き上げる、力強いけれど綺麗な彼の手。
彼と共にいられるのなら、彼の腕の中で逝けるのならそれでもいい、と――

「ぐぇ……?!」
唐突にマークが真っ赤な顔をして苦しみだした。
ボウガンを取り落とし、両手で喉元を掻き毟る。
マークの手下達も訳が分からずおろおろとその様子を見守っていたが、一人ラルクだけが落ち着いていることにわたしは気がついた。
息も絶え絶えにもがき続けるマークの足下へ視線を落として、驚きのあまり今度はわたしの息が止まりそうだった。
黒い影が、マークの喉を片手で締め上げていた。
ラルクは動いていない。
マークの言う通り、指一本すら動かしていない。
だけど、火影に照らされ現れた彼の足元から伸びている影だけがマークの影の喉を掴み、持ち上げている。
影の動きに合わせてマークの身体もゆらりと持ち上げられ、足が数インチばかり床から離れた。
口の端から泡を吹きながら今や蒼白な顔色になったマークへ、

「感謝して貰おうか。『人』のまま殺してやる事に」

凍る様な声に白目を剥きかけた彼の眼球が、ラルクへと戻った。
わざわざ意識を戻され、改めて告げられた死の宣告に彼の表情が醜く歪んだ。
振りほどこうと激しく手足をばたつかせて抵抗を試みたが、それもすぐに力無い痙攣へと変わる。
涼しいまなざしのまま獲物が苦悶する様子を眺めるラルクの前で、ごき、と鈍い音が響いた。
ラルクの影が離れると同時にマークの身体も固い石造りの地面へとくずおれた。
リーダーの末路を見せつけられ、手下共は悲鳴を上げて地上へと続く出口へと散り散りに消えていった。

「私は吸血鬼だ」
マークの屍を見下ろしながら、ラルクは改めて告げた。
「人間と相容れる事はない」
それは、わたしへの別れの言葉。
「ラル……」
黄金の両眼に見つめられて意識が遠くなる。
まだ話したいことがたくさんあるのに。
まだ彼の声を聞いていたいのに。

首筋に冷たい唇の感触を感じると同時に、わたしの意識は闇に呑み込まれた。

穏やかな寝息を立てる少女を宿のベッドに横たえる。
すべやかな首筋に惹かれぬ訳ではないが、乾いた涙の跡が残る頬の方に気を取られた。

ひとりにしないで

少女の叫びが心の中で繰り返す。

かつて、雨の中、私が叫んだ言葉。
今は夢の丘に眠る恋人との別れを思い出し、心臓に杭を打たれた様な痛みが走る。
それでも、だからこそ、この少女の想いには応えられない。
「人は人と寄り添うべきだ」
私は片耳のピアスをはずし、クリスの手に握らせた。
これで暫くは生活の足しになるだろう。夜の世界で戦わずとも。
彼女が吸血鬼ハンターとしてこれからも生きていくのかは分からない。
だが、今はこの娘を殺す気にはなれなかった。
「これで最後だ」
自分に言い訳するかの様に呟き、少女の傍らから身を退いた。

「さようなら。美しく強い、吸血鬼ハンター」

扉が静かに閉じられた気配を感じて、クリスはそっと目を開けた。
そして、掌に残された贈り物をきつく握りしめて―― 泣いた。

「さようなら……優しい吸血鬼」