銀の月が、綺麗だった。
邪魔な雲の一つとて無き澄んだ夜の空を彩る、冷たい月。
その男を見たのは、そんな夜。
天より差し込む銀色の光の中浮かぶ、漆黒の闇を人型に切り取った様なその影。
もう夜も更け誰一人通る事のない街道の真ん中で、静かに天を仰ぐその姿。
年の頃は少年を過ぎた、青年にさしかかったくらいだろうか。
それでも、大の大人ですら彼の前では幼く見えてしまうだろう。
そう思わせる程の深みが、その男の眼にはあったから。

――美しかった。
こんなに離れていても、夜の闇は彼の姿を隠すどころか、より一層その美貌を映えさせるかの様に。
月明かりに照らされる白い肌には一点の汚れもなく、天上の名工がその腕を惜しみなく振るって彫り上げてもかくや、とおぼしき整った目鼻立ち。
細身の体を包むコートもまた、夜の色。
そう、彼は夜と言う世界に祝福される美しさを与えられた者――
少しだけ寒さを含んだ夜風に嬲られる短く切られた黒髪もそのままに、彼はただ、月を見上げていた。

そうして少し距離のある木陰からそれを静かに見つめる影が、ひとつ。
獲物、だ。
今夜の内に街道を抜けるのは無理と諦め、道端の木陰で野営しようと広げていた荷物に最早見向きもせず、スランは剣を掴んで茂みから抜け出た。

ふわりと、黒の男が初めて空以外の方向へ首を巡らせたのは、心地よい静寂を破るがさりと無粋な葉擦れの音か、押し寄せてくる殺気のせいか。
気配を隠す事も足音を消す事もせず、堂々と近づいてくる闖入者の姿を認め、訝しげな表情を相手に浮かべさせた事に、スランは少しだけ先手を取った気分を味わえた。

「いい夜だな」
「……」

スランの呼びかけに、男―― カイルは答えなかった。
ただ、
(…うわ、まーた面倒そうなヤツが…)
心の中でそう溜息をついただけだ。
この場合、その反応は彼でなくてもごく自然な事だろう。
―― 目の前にいきなり、白々と光る抜き身の剣先を突きつけられては。
「獲物が通りかかるのを待っていたのかい?吸血鬼」
愉快気な口調だが、スランの眼には笑いの欠片もない。
あるのは、ただただ、吸血鬼への闘志と憎悪。
(…っちゃー、ヤバイなこいつ……)
対峙している、見た目は同じ年頃の青年の様子を見て取ると、ますますカイルはうんざりしてきた。
無造作なようでいて、しなやかな油断のない身のこなし。
ぴたりと自分の左胸を狙う長身の剣からは、気にくわない聖気が発せられている。
心臓で無くともこれに斬りつけられれば、通常の倍の痛みと治癒の時間を要する事になるだろう。
魔を払うべく清められた、祝福を受けた聖剣。
ただの旅人が持つ装備では無い。
そして、自分の正体を即座に看破し、その上で向かって来た事。
「俺は吸血鬼ハンターのスラン。お見知りおきを…って言っても、もう次はないけどな」
「……」
夜の吸血鬼と出会って、怯えもせず、逆にこうも嘲り挑発する者などそういない。
吸血鬼を獲物とするハンターですら、だ。
獲物どころか、返り討ちに遭う確立の方が天文学的に多いこの仕事に、わざわざそれ以上の危険を引き込む馬鹿などいない。
――目の前の、スランと名乗ったこいつは?

面倒くさい事は嫌いなカイルだが、聡明な瞳は、目の前のハンターがただの無謀な若造で無い事を見抜いた。
何かに裏付けされていなければ、このふてぶてしさは生まれない。
だが、それに付き合う義理は、カイルには微塵もない。
どうして、ハンターと言う輩は見境無しに絡んでくるのだろう。
(大人しく、墓場の死に損ないでも退治しててくれりゃーいいものを)
心の中でそう毒づきつつ、
「…たまたま通りがかったってだけで、別に血に飢えてる訳でもないんだが…それでも、駄目かい?」
駄目で元々、カイルは一応訊いてみた。
両手はコートのポケットにしまったままで。
殺気も戦意も、ひとかけらも見せずに。
邪気の感じられない天の御使い如くの美貌と相まって、普通の人間ならばその姿にとても手を挙げる事など出来はしない。
だが、

「駄目だな」

相手はあっさり一蹴し、そのまま黒衣の青年へと躊躇いもなく剣を突き刺した。

「!」
黒い影を白銀の輝きが貫いた、と思えたのも一瞬の事。
剣戟と同時に黒衣の残影だけを残し、黒霧がスランの前で散った。
「ちぃっ」
だが、スランの動揺も一瞬の事。
そしてカイルの安堵すらも同じく。
舌打ちしたスランの表情は、戦意を損なうでもなく、そのままニヤリと不敵な笑いへと変わり、ベルトに差してあるナイフへ素早く手が伸びる。

「逃がすかっ!!」

きぃん、と乾いた音がした。
「なっ…!」
そして、夜気から伝わる驚愕の気配。

「お前…俺が『視えた』のか?!」

ざあっと再び風が逆巻く音がして、黒い霧がスランの前に渦巻き、再び形を成す。
隠せない驚きの表情を浮かべたカイルの姿が。
その足下には、たった今払い落としたスランのナイフが突き立っている。
撒いたと思って油断したとは言え、もう少し反応が遅ければ、それが突き立てられていたのは確実にカイルの心臓だったろう。
普通の人間に、霧と化した吸血鬼の姿が分る訳がない。
気配だけならともかく、こんなに的確に視えるはずが―――
「だけど、お前は同族じゃ…」
そこまで言いかけて、はっとした様にカイルは顎にかけていた白い指を離した。
「ダムピールか!!」
揺れる『獲物』の言葉に、スランは、ようやく気付いたか、間抜けがと言いたげな笑みを向けた。
「そうさ。お前らを狩るのに、俺ほど最適な資質はないだろ?」

ダムピール。
人間と吸血鬼の間に生まれ落ちた者の総称。

「ダムピールなのに、何で吸血鬼ハンターなんか…!」
失言だった。
だからお前はもっと世間に出て処世術を学ぶべきだと、彼の異母兄なら皮肉を垂れる事間違いなしに。
スランの眼が、ぎらりと危険な輝きを増した。
「何で、だと?」
憎悪の炎が、吹き出さんばかりにカイルへと向けられる。
「この世からお前たちが全て消えない限り、俺は惨めなままなんだよ!」
言いざま振り上げられた白刃が咄嗟に身を捻ったカイルの髪をかすめ、幾本かが斬り飛ばされた。

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ダムピール
この世で産声を上げた瞬間から、全てから背を向けられる忌み子。
人間の血を引きながら、人でなく。
吸血鬼の血を継ぎながら、吸血鬼になりきれず。
血を飲む事なく生きられるけれど、血への渇きは生ある限りその身を苛み続け、
夜の月は優しく招くけれど、陽光の下での暮らしは、人間としての祝福される生の象徴―――
(まずい事言っちまったなー…)
右に左に襲ってくる剣戟から器用に身をかわしつつ、カイルは今の発言を後悔したが、もはや後の祭り。
「った!んなに怒る事ねーだろ!」
今度は右下から!
ダムピールについて、知識としては知っていたものの、実物と相対したのは実は初めて。
「やかましい!死ね!とっとと滅びろこの野郎!!」
吸血鬼側からすれば、ダムピールなど半人前の異端児。
同族などとはとても呼べぬなり損ないだ。
そして、人間からも、石もて追われる身である事も。
なるほど、この有様を見れば、ダムピールが吸血鬼ハンターを生業とする事が多いという話は偉く真実味がある。
この血がただの農夫などに黙っておさまっていられるものか。
その境遇には、カイルとしては同情と憐憫を持つ。
「あぶねっ!」
だが、そんな事を口にすれば、スランの憎悪に油を注ぐ事になるという事も、流石に今は分る。
「どうした!このまま夜明けまで逃げ回るか?!」
スランの剣技は淀みがない。
今までに闘った人間とは確かに段違いのレベルである事を認めざるを得ない。
「こっちが闘わないっつってんのに、どうしてそう野蛮なんだよお前!」
吸血鬼と、それには劣るが並の人間以上に体力はあるダムピールの戦い。
「ふざけるな吸血鬼!だったらそのそっ首大人しく差し出しやがれ!!」
ただ避け続けるだけでは、本当に夜明けまで決着はつかなさそうだ。
(こんなとこで遊んでる暇なんかねーってのに!)
のほほんと物事を深く考えない質とは言え、いい加減カイルもそろそろむかっ腹に来た。
争い事を求める気なんてないが、売られた喧嘩から逃げ出すほど腰抜けでも無い。
しかも、こんなに一方的に挑発されまくったまま許すつもりは無い。
ダムピールと知って目の前の青年に少しだけ同情がわいたのは、やはりカイルが甘ちゃんである証だが、だからといってこの心臓をくれてやるつもりなど毛頭無いし、敗けるつもりだってない。
後を追えない程度に、ちょっとここで無理にでも休ませてやろう。
カイルの腹は決まった。

「いー加減にしやがれ!!」

「!!」

カイルの怒声と共に、斬りかかろうとしたスランの身体は見えない腕に打たれたかの様に後ろへ吹っ飛ばされた。
衝撃で剣をもぎ取られない様に腕を庇い、背中から茂みへ突っ込む。
「そっちがその気なら、俺もいい加減容赦しないぜ」
そのコートが大きく翻ったのは、突然強くなった夜風のせいか。
彼が開放しだした有り余る鬼気のせいか。
「ちっ!」
柔らかい草地に叩き付けられても、ダメージは全くない。
そのまま跳ね起き、手放さなかった剣を握り直すと、スランは後ろに飛んで間合いを取った。
(…へっ、やっとかよ。焦らしやがって)
今まで無抵抗を通してきた相手。
その両眼が最初に見た時と今では、明らかな変化を遂げつつあった。
闇色の瞳は、ああ、彼らが求める血の色へと。
背後に回った銀の月が彼を照らし、優美なシルエットを形作る。
その中に光る、二つの赤光。
それはきっと、生涯忘れられないほどに美しい影絵。
「ようやくその気になったかい」
笑いながら、スランも精神を集中する。
髪と同色の瞳は、光の加減によって時折紅く見えた。
戦いの興奮によって呼び覚まされた、片親の血ゆえか。
その血が、目の前で本性を現し始めた同族に反応したか。
そう、今の彼は血に飢えていた。
目の前の吸血鬼の血に。
この美しい男を切り裂き、その血の色を見てやりたい。
その白い肌に己の血をぶちまけてやりたい。
今までにこいつが吸った血を贖わせてやる。
背筋がぞくぞくするほどの猛り。

「俺は名乗った。お前の名は?」
あれほど剣を振るいまくっていたにも関わらず息切れひとつせずに、スランは尋ねた。
普段なら、そんなまどろっこしい事などせずに片を付けている。
いちいち獲物の名など覚えていられるものか。
無様に泣きわめく化け物の姿なんて、記憶に留めたくもない。
だが、彼は訊いた。
知りたかった。
今までとは違う、この吸血鬼の事を。
黒髪の吸血鬼は、先程まであった人間味を打ち消すほどに冷たい声で一言答えた。

「カイル」

鋭い爪が伸びた白い指先がすうっとスランに向けられると同時に、スランも草地を蹴った。