×月×日

このお屋敷にお世話になれる事になった。
今までの長屋暮らしとは天国と地獄の差だわ。
勿論こちらが天国よ。
立派なお屋敷にとても気のつく召使い。まるでお姫様になった気分。

昨夜の続きを書こうと思う。
家を忘れてしまった、と言ったわたしに、カイル様は困ってしまった様だった。
「あの街に住んでたんだよな?行けば思い出せるかな」
あそこに戻ったら、また母と男に見つかっちゃう!そうしたら今度こそ殺されてしまう!!
そう思って、わたしは
「ごめんなさい…何だか頭が痛くって……」
嘘をついてしまった。
「ああ、無理をしないで。頭も打ってしまったのかもしれない。今夜はとりあえず休んでいくといい。ただ――」
ここでちょっとカイル様が言いにくそうに目を伏せた。
カイル様とケイ様は身体が弱く、昼間は外に出られないそうで、日が沈むまで寝室にこもっているんですって。確かにカイル様の肌は透き通る様に白いものね。
だから、申し訳ないけど日中は与えられた部屋から出ないで欲しい、と言われた。
用事があればメイドを呼んでくれ、と。

それでもやっぱり好奇心を抑えられず今朝一度こっそりドアを開けたら、廊下をちょこちょこと猫が歩いていて、わたしに気付いた途端フーッ!って怒って飛びかかろうとしてきたから慌てて部屋へ戻った事もあった。
「猫を飼っていらっしゃるんですか?昼間見かけたのですけど」
とカイル様にお聞きしたら、
「え…あ、うん、まぁ」
と、何だか口ごもられてしまった。
その上、
「窮屈で申し訳ないと思うけど、昼間は部屋から出ないで欲しいんだ」
と再度念押しされ怒られてしまった。
言いつけを破ったわたしが悪いのだからひたすら謝って許して貰えたけれど、これからは気をつけなきゃ。

結局、この足が治るまでは面倒を見るけどそれ以上の滞在は駄目だとはっきり言われてしまった。
当然の事だし、むしろお優しすぎる待遇だと思うわ。
わたしなんて獣の餌にされてもおかしくないんですもの。
でも期限を区切った理由が、わたしの身分云々と言う話ではないとは仰っていたっけ。
カイル様とケイ様はとても人嫌いだからこんな森の奥に住んでいるそう。
都での暮らしに疲れた、と苦笑いしてらっしゃった。
都なんて近寄ることも出来ない憧れだけど、貴族様も色々と大変なのね。

 

×月×日

このお屋敷でのわたしの一日はこんな感じ。

朝、と言うにはもう陽が随分と高くなったところでようやく目が覚める。
カイル様と過ごせるのは夜の間だけだからついつい夜更かししてしまい、朝が起きられない。
ベッドサイドのベルを鳴らすとメイドがすぐにやってきて、わたしの足の包帯を取り替えて朝食をサイドテーブルにセッティングして行く。
このお屋敷のメイドはとても口数が少なくて静かで、まるで影のよう。
身分違いの厚かましい招かれざる客であるわたしを毛嫌いしているのかなとも思ったけれど、そういう嫌な感じすらまるで無いのがとても不思議ではある。
今朝のメニューは焼きたてのパイ、一切れのチーズ、黒すぐりのジャム、熱いお茶と新鮮なミルク。
この一食だけで今までのわたしの一日分の食事を賄えてしまうわ。

食事を終えるとそのままぼんやりと刻が過ぎるのをひたすら待つ。
お部屋から出ることは許されないし、窓の外は鬱蒼とした森が広がるだけ。
外は凶暴な獣が彷徨いているから決して一人で出ては行けないと言われているし、居心地の良いこのお屋敷から出る理由も無い。
むしろここにしがみついているのはわたしの我が儘なのだから。
カイル様の優しさにつけ込んで、何て性悪なのだろう。
それでも、やっぱり退屈感はある。
以前廊下で見かけたあの猫は何処にいるのかしら。
亜麻色した小さくて可愛らしいあの猫と遊べたら楽しいのにな。

夕刻、カイル様が起きていらっしゃったとメイドに教えて貰い、すぐに服と髪を整えてリビングへと降りる。
そう言えばこのお屋敷で鏡を見たことが無い。鏡を見たところでわたしの貧相な姿がどうなるものでもないけれど。
メイドに扉を開けて貰うと、革張りの椅子に体を沈めたカイル様が気怠げに頭を上げて
「おはよう…いいや、こんばんはお嬢さん」
と仰る瞬間が一番の楽しみ。
それから共にお茶の時間を過ごした後、晩餐。
この夜は、グレイビーソースがたっぷりかけられたプディング、ベーコンと豆のスープ、スパイスたっぷりに香ばしく焼き上げられたローストチキン。デザートには干しイチジクの砂糖漬け。
と言っても、カイル様は召し上がらずワインを飲んでいるだけ。
食が細く、あまり食事は取らないのだそう。
確かにあの方の顔色はとても白い。
何か病を抱えていらっしゃるのかもしれないけれど、そんな事まで伺えるほどわたしは増長していない。
心配はここに書き記すだけにしておきましょう。

食事が終わると、お茶と共にまたカイル様とお話の時間を頂ける。
わたしは記憶が無い事になっているけど、それでも断片的に覚えてるを…と言いつつお話しする普段の暮らしの話をカイル様はとても面白そうに聞いて下さる。
「俺は全然外の世界を知らないから」
貴族様にとって薄汚い下町なんてきっと想像もつかない世界なのでしょうね。
そこに人がどうやって生きているのかも。
「俺も子供の頃、こっそり館を抜け出した事あるんだ。結局、森で迷子になってメイドに捕まって冒険はおしまいだったけど」
内緒話をこっそり打ち明ける少年の様なカイル様の仕草に、わたしは血が頭に上りすぎてくらくらした。
そして、ごめんなさい。
カイル様はわたしの記憶が少しでも戻ったのかをいつも気にされていて、とても申し訳なく感じる。
右足の痛みは大分引いてきて、それはわたしがここに居られる刻限が残り少ないことを責め立てる。
いつまでもお世話になるわけにはいかない。
けれど…
夢に見ることすら無かったこの豪華な暮らしにしがみつきたいわけじゃない。
ただ、カイル様のお傍に居られたら…
お優しい表情とあのお声を聞けたら……
もう少し、あと少しだけ――

 

×月×日

夜。
夕食が済んで一度部屋に戻ったものの、カイル様ともう少しお話したくてリビングに入ると、知らない男の人が暖炉の傍らの椅子に腰掛けていた。
「あ……」
カイル様のお客様と思ってご挨拶しようとしたけれど、声が出なかった。全身に鳥肌が立った。
だってその御方――
暖炉の焔を受けてその人の金の髪がきらきらと輝く様をずっと見ていたら、きっとこの目が潰れてしまう。
だからわたしは慌てて顔を背けて下がった。
リビングから退出しようとしたところで、本を抱えて入ろうとしていたカイル様と鉢合わせしてしまった。
「どうしたんだ?エミリア…」
心配そうにわたしの顔を覗き込んだ後、リビングの奥へ視線を向けてカイル様は理由がお分かりになったみたいだった。
「落ち着いて。大丈夫だよ、彼はラルク。俺の兄だ。こちらはエミリア嬢。街でちょっと怪我をさせてしまったので面倒を見ている」
「………」
カイル様の紹介を受けた黄金の眼がわたしに向けられ、動けなくなった。
カイル様のお兄様!
それならばこの人間離れした美しさも分かる。
けれど髪も眼の色も全く違う。
カイル様が夜の色を持つなら、この方は世界の色――

「カイルー!!」
開かれたままのリビングのドアの向こうから不機嫌そうな女の子の声がした。ケイ様?
「…悪い、ちょっと行かなきゃならないんだ。エミリアも部屋に戻っておいで」
次いでラルク様の方を見やり、
「この娘は俺の客人だ。妙な手出しは厳禁だからな」
それだけ言ってカイル様はリビングから出て行ってしまった。
取り残されたわたしは、カイル様のお兄様――ラルク様と二人っきりになった。
カイル様が仰った通り、わたしはすぐに部屋へ戻るべきだったのよ。
けれど――
金色の彼は立ち尽くすわたしの存在なんて全く眼に入らない様にワイングラスを傾けていた。
白い指が優美にクリスタルグラスを持ち、口元へ運び深紅の液体を流し込んで微かに喉を動かす。
その動作ひとつひとつがわたしの視線を吸い寄せて離さない。
魂を抜かれた亡者の様に、わたしはずっとそのままだった。
それに何より、さきほどのカイル様のお言葉がずっと胸に刺さっていた、
わたしを、
薄汚いただの町娘のわたしを、カイル様は客人と仰って下さった――
その夢見心地を崩したのは、ラルク様のお言葉だった。
「ミリアム」
初めて発せられたラルク様の声。頭の奥が痺れる美しい声音。
思わず返事をしかけ、その意味をかろうじて残っていた理性で理解したとき、陶然としていた意識は氷水を浴びた。
「…と言う名前の娘がさらわれたと喚き立てている男と女を、ここに来る前に立ち寄った街で見かけた」
それだけを言うと、もうわたしの存在なんて無かったものの様に彼は再度ワイングラスを傾けた。
世間話、じゃない。
この方はわたしの本当の名前を知っている!
わたしが名前を偽っている事を知っている。
そして、わたしはこのお屋敷を出ることにした。

カイル様を騙すつもりなんて無かった。
ただ、わたしの本当の名前、本当の姿を知られたくなかった。
実の母に虐げられ、その愛人に殺されかけたなんて言えなかった。
束の間でもこんな貴族の生活を恵んで頂けて、本当に本当に幸せだった。
街に戻ると告げた時、カイル様がほっとした表情を浮かべられたのは切なかったけれど。

 

×月×日

とうとうわたしの夢みたいな生活が終わる夜が来た。
カイル様のコートに包まれる様にしてエスコートされながら馬車に乗り込む。
最後に、今まで夢を見せてくれていたカイル様のお屋敷を見てみたかったけれど、馬車の窓は厚いカーテンが降りていた。
「とりあえずきみと会った街へ向かうけど、記憶は戻ったのかい?」
カイル様の問いを、わたしは曖昧に誤魔化した。

見慣れた街の通りへ馬車は滑るように入り止まった。
売女や強欲な物売りが恥ずかしげも無く闊歩し飢えた幼子達が建物の影で寒さに震える、楽園とは正反対の世界。
戻ってきてしまった。
本当なら母の愛人に突き飛ばされたあの夜、わたしは死んでいたのに、束の間とはいえ素晴らしすぎる夢を与えられた。
あの時死んでしまえば良かった。
またこの煉獄へ放り込まれるくらいならば。
意識せず、涙がぽろりと零れた。
「エミリア…?大丈夫か?記憶が無くて不安なら救済院へ行くか?」
わたしの様子に気付いたカイル様のお気遣いが余計に心に痛かった。

「ミリアム!」
濁っただみ声が背中から飛んできた。
母とその男が満面の笑みを浮かべて駆け寄ってくるところだった。
「……!」
今まで美しすぎる方々ばかりに接していたせいか、でっぷりと肉のついた酒樽みたいな二人の姿を見て吐きそうだった。
「ようやく見つけたよ!無事だったんだねぇ、良かった良かった。お前が貴族の馬車にさらわれたのを見てあたしゃ死のうと思ったもんさ」
「お前さんがうちの可愛い娘を拐かしたのかい?いくら貴族様とは言え、人の娘をいきなり連れ去るなんて…」
母と男がわたしを羽交い締めにしながらカイル様へと詰め寄った。
そしてカイル様が顔を上げて視線を交わせた途端、息を止めるのが分かった。
ガス灯とそのはるか上に座す満月の光を受けて輝くカイル様の美貌。夜風にそよぐ漆黒の髪とコート。
ずっと見てきたわたしですら魂を奪われそうになるお姿。
それでも欲の皮に突っ張った母はそれに抗った。
「わ、わたしはこの娘の母親ですよ!貴族様の馬車にはねられた上に連れ去られたと聞いてずっと探してたんですから!!」
「もう止めてよ母さん!わたしを殺そうとした癖に!!」
理不尽な母の言い草に言い返してしまった事で、記憶が無いと言ったわたしの嘘がばれてしまった。
わたしの名前がエミリアでは無い事も。
「ミリアム、きみの身内か?」
カイル様の問いに、わたしは浅く頷いた。
本当は認めたく無かったけれど、今のカイル様に嘘を申し立てる事はもう出来なかった。
カイル様がエミリアで無くミリアムと呼んだことに、一抹の寂しさと大きな罪悪感を覚えながら。
「まあまあ、こんなとこで話すのも野暮ですからな、是非我が家へどうぞ。貴族様をお招きするにゃ小汚ないですがね」
母の男が胸の悪くなる媚びた笑顔でカイル様を招いた。
「うちの娘、いい女でしょう?お見受けしたところご立派な貴族様だ、そう高くふっかけるつもりはございませんよ」
冷たい視線で眺めていたカイル様が、母と男の案内に従って歩き出した。慌ててわたしもその後を追う。
「お待ち下さいカイル様!もう、もう十分です!!後はわたしが…」
カイル様の背へ縋ろうとしたわたしを、カイル様はそっとコートの中へ抱き寄せて耳打ちした。
「きみは、この二人の元へ帰りたいかい?」
優しい声音と吐息。
わたしは即座に首を右へ左へ何度も大きく振った。
そんなわけがない!
わたしを殺そうとしたやつらの元へなんて!!
だけどわたしの依る場所はここしかない。
森の奥で過ごした夢の日々はもう終わったのだもの。

「今だから言えますがね、あっし達は本当に恐れていたんですよ。娘が貴族にさらわれたって言ったらもう返っては来ないってね。都の方じゃ若い娘を掠って血を啜る吸血鬼貴族の天下だと言うじゃあありやせんか」
いやらしい笑みを滲ませて母の男はカイル様を見上げた。
「こんな器量無しですが幾らでお買いになりやすかい?」
角を曲がり薄暗い路地へ入ったところでカイル様が足を止めた。
この先のあばら屋がわたし達の住んでいた下宿。
「これ以上行くまでも無い。お前達の腹は分かった」
こんなに凍てついたカイル様のお声を初めて聞いた。
「ミリアムを殺そうとしたな。俺は見たんだよ。彼女を突き飛ばしたお前の顔を」
男の顔が青くなった。
わたしも平静ではいられなかった。
知っていた?知られていた!ご存じだったなんて!!
「このまま誘い込んで俺を閉じ込める腹か?間抜けの貴族から身代金をせしめてやろうとでも思ったか?」
空気が変わった。
息が詰まるほど濃密な――殺意。
「さっき都には吸血鬼がとか言っていたな。それなら、ここにいる」
まるで別人。
穏やかだった夜色の瞳が血の色に染まり、禍々しい光を放った。
そして、鋭い牙。
唇の隙間から剥き出された乱杭歯は、魔物の証。
それが母の愛人のたるんだ首に突き立てられ、吹き出した血は黒く汚く濁って見えた。
「まじい」
カイル様はペッと赤い色の混じった唾を地面へと吐いた。
「まだ女の方がマシか」
そう言って男を突き飛ばすと、今度は棒立ちになってる母の首へと躊躇無くその牙を沈めた。
母がびくりと身を震わせているその時ですら、わたしは微動だに出来なかった。
抗う素振りも無く口付けを受ける母。喉を鳴らすカイル様。その唇の端から零れ落ちる一筋の赤い滴――
ああ、何てこと。
わたしがずっとお慕いしていた御方は、吸血鬼――!!

血の宴が終わり、カイル様が口元をハンカチで拭った後、呪縛から解放されへたり込んでいる母と男へ告げた。
「殺しはしない。ミリアムの母だそうだからな。だが今宵を限りに彼女に近づくな」
冷たい声。屋敷で見せて下さった温もりの欠片も感じられない。
どちらが本当のカイル様なのだろう。
「吸血鬼に襲われたと教会にでも泣きつくか?俺を追い立てる前に、お前達が白木の杭に打たれて首を撥ねられるさ。何せその首には立派な証があるからな。『犠牲者』の」
母と男はびくりと首筋を押さえた。
その手の下には今も血が滲む誤魔化し様の無い二つの赤い傷跡。
カイル様――吸血鬼の牙が穿った忌まわしい刻印。
「娘と俺、そして今夜あったことを全て忘れろ。であれば傷は消える。少しでも反抗する気が残っている間は決してそいつは消えない呪いをかけたからな」
そう告げた後、彼はわたしを見た。
憂いを帯びた穏やかな黒い瞳。
吸血鬼だから、なに?
わたしがお慕いするカイル様の何が変わると言うの。
だから、最後のお願いをした。
「…わたしにも、深いくちづけを。せめて幸せな夢を抱いたまま逝かせて下さい」
すーっと静かな涙がわたしの両目から頬へと流れていった。
「カイル様を謀った罪の贖いにとても足りはしませんが、わたしが差し出せるのはこの血くらい」
熱くも冷たくも無い、ただの滴。
「どうか、幸せだった、エミリアのままで…」
黒いコートがわたしを包んだ。血の香りが舞い上がる。
「おやすみ、エミリア」
その言葉と共にわたしの額に彼の唇が触れて、黒い眠りが訪れた。
 
 
 
 
 
×月×日

何なのかしら。
今までの日記を読み返して、思わず自分の想像力の豊かさに吹き出してしまった。
貴族様のお館でもてなされて幸せに暮らして、でもそれが吸血鬼だった…?
事故で頭を打ったせいだろうけど、あまりに細かい描写に我ながら読みふけってしまったわ。
本当は、轢かれ掛けたのは貴族の馬車なんかじゃなく救済院の荷馬車だったのに。
そうして今はそこでパンとスープを配るお仕事も貰えているのに。
食事とベッドがあるわたしはなんて幸せなんでしょう。
ここに担ぎ込まれた後、一心不乱に何か書き付けていたと思ったら眠ってしまい、三晩も目を覚まさなくて死んでしまったかと思ったよと院長先生が仰っていたけれど、この長い日記がその時書いた妄想なのかしら。

そうだわ、これを小説として発表してみようか。
こんなに面白いわたしの想像で作った物語をこの日記帳の中にしまったままなのは勿体ないわ。
タイトルはどうしましょう。
吸血鬼の夜?
いいえ、そんなのありきたり。
じゃあ、こうしましょう。
この日記の中で出て来た、もうひとつのわたしの名前を使うの。

『ミリアムの日記帳』