「ね、ね、カイルっ!あれも可愛い♪」
「どわっ」
元気のいい猫娘に勢いよく袖を引っ張られて、カイルは思わず両手に抱えた荷物を取り落とすところだった。
自分の館で過ごすのが一番落ち着くカイルも、ずっと閉じこもったままというわけにはいかない。
そろそろ読む本も尽きたことだし、様々な買い物の為に街へ出ることにした。
同居している少女ケイには大人しく館で待つようにと言ったのだが、好奇心旺盛で、しかも人一倍寂しがりやの彼女が大人しく従うわけもない。
かくしてこの若い男女は、久方ぶりに館を離れ、揃って都会の街に出て来たと言うわけだ。
夕闇迫る通りは明るいガス灯に照らされ、流行の服を着飾った男女がそこここで笑い合い、傍らを豪奢な造りの馬車が軽やかに石畳を駆け抜けていく。
野良猫時代は裏通りでゴミを漁るしかない生活だったケイには、都会の華やかな通りや夜でも明るい町並みはどんなに見ても飽きないらしい。
ずっとこの調子ではしゃぎまくり、そこは女の子なのか、可愛いレースの服やリボンを見ると、ショーウィンドウにはりついて離れない。
お陰でカイルは、前が見えなくなるくらいかさばる荷物を持たされる羽目になった。
「もういいだろっ!猫が服をんなにたくさん持ってたってしょうがないだろーが!!」
いつも着たきり雀のカイルには、どうもこの辺の感覚が分からない。
女というのはこういうものなのか?
それとも、この好奇心旺盛な猫娘がそうなだけなのか…。
端から見れば、彼らは買い物を楽しんでいる若い恋人達にしか見えない。
だが、その正体がバレれば、通りの人間達は血相を変えて逃げ出すことだろう。
何せ、二人とも人間ではないのだから。
長い髪を揺らして、あちこち元気よく跳ね回っている少女の姿は仮の姿。
きらきら光る緑色の瞳を持つケイの正体は、猫。
月が与える魔力は彼女を人の姿へ、キャットウーマンへと変える。
ただ、行動までも完璧人間になると言うわけではないので、さっきから貴婦人のひらひらと動く長いスカートを見かけるたびに飛びかかろうとするのを、カイルに何度押さえつけられたことか。
そしてはしゃぎ回るケイを制するだけで一苦労な様子の青年、カイルは―――
秀麗な顔立ちは、先程から通りですれ違う淑女達が頬を染めて思わず振り返るほど。
黒絹の髪と、澄んだ夜空の色の瞳が、その美貌に一際彩りを添える。
惚れ惚れとするほど絵になる美青年だ。
社交界に出れば、その微笑の欠片だけでご婦人方を魅了するだろう。
だが、その正体が知られれば、それこそ人間達は卒倒しかねない。
何を隠そう、彼こそは恐怖の象徴、暗黒の住人―――人を襲い、その血を貪るおぞましい魔物、吸血鬼なのだから!
……が、この二人の姿を見て、誰がそうだと気づくだろうか。
両手に買い物の荷物を抱え、実年齢では遙かに年下の少女に振り回されている吸血鬼なぞ、前代未聞だろう。
カイルとて、自らを顧みてちと情けない気がしないでもないが、どうもこの猫娘のペースには逆らえない。
すっかり疲れ果て、当初の目的である自分の買い物をする気力もすでに萎えてしまった。
(…こんな所をヤツに見られたら、まーた馬鹿にされそうだ)
何故だろう、ふっと唐突に、脳裏に美しい一つの影が浮かんだ。
皮肉げな光を浮かべた瞳は、それでも美しい、髪と同じ黄金の色。
白皙の美貌は、未だに誰の追従も許さない、カイルですらまだまだ手が届かないほどの完璧なもの。
その彼は、こんな時に出会えば、きっとため息混じりの呆れ顔でこう言うだろう。
「相変わらずじゃれ合ってるのか。お前達は」
そう、そんな口調で――
「…って……え゛っ?!」
今度こそ、彼は荷物をどさどさと取り落とした。
折角の整った顔立ちも、あんぐりと開いた口が塞がらない。
ショーウィンドゥに飾られた紗のリボンに目を奪われていたケイも、カイルの異変にようやく気づき、次いでその視線の先を追って飛び上がった。
「ら、ラルクぅっ?」
カイルの脳裏に浮かんだ、美の結晶とも言うべき姿が、目の前で形を成して佇んでいた。
思わずカイルは自分の頬をつねってみたが、冷たい美貌の主は消えてはくれない。
夢でも、幻でもない、本物だった。
甲高いケイの叫びに、通りの人間達の視線が三人に向けて一斉に集中する。
不審のざわめきは、その中心にいる者を見て、一気に感嘆のため息へと変わった。
そこらの若者より遙かにハンサムな黒髪の男と―――美しいという陳腐な言葉ではとても表現できない、黄金色の髪の男の、二人の青年の姿に。
「化け物にでも出会った様な顔をしているな。わざと気配を隠さず現れてやったのに、全く気づかないとは呆れたものだ」
では先程、急にラルクの事を思い出したのは、その気配のせいか。
にしても、人間から見れば彼らは十分すぎるほど立派な「化け物」になるのだが、口にした方も言われた方も、事の不自然さを全く意識していないところが笑える。
「なっ、何であんたがここにいるんだよ?!」
「それはこちらの台詞だ。お前が街に出るなど、どういう風の吹き回しだ?」
久々に交わされた、それが異母兄弟の最初の会話だった。
カイルの異母兄、ラルク。
勿論、彼も吸血鬼。
あちこち旅を続ける彼は文字通り神出鬼没で、誰も居所を把握など出来ない。
だけど、まさか、よりにもよってこんなところで―――
「ああ、そうか。お前の館に一番近い街はここだったな」
気まずいカイルの心中を知ってか知らずか、ラルクは一人納得して薄く笑った。
「邪魔者は消えてやるから安心しろ。私も野暮ではないからな」
弟とその恋人にそれだけ言うと、彼はさっさとコートの裾を翻した。
と、何かを思いだしたように、振り向いた。
「あ、折角だ。近い内にお前の館に遊びに行くから宜しくな」
そして今度こそ、流れる人混みの中に溶け込んでいってしまった。
それに合わせるように、惚けた表情で彼らを取り囲んでいた群衆も、ようやく呪縛から解かれた如くに徐々に動き始めていた。
「………」
ほんの一分にも満たない邂逅だった。
久しぶり、しかも確率のものすごく低い偶然の再会だったと言うのに、ラルクは動揺どころか何の感慨も抱かないのだろうか。
本当に彼は、肉親にすらその辺を歩く通行人と同じ認識しか持っていないのかもしれない。
足下に転がる荷物の事などすっかり忘れた様子で通りに立ちつくす、黒衣の青年と寄り添う少女の姿を見つめる、二つの目があった。
そいつは、しばらく彼らの様子を見ていたが、やがて小さな足を動かして近寄っていった。
「…ラルクって、昔からあーいう感じなの?」
魂を抜かれたようなケイの言葉に、カイルは力無く頷いた。
「何か俺、いやーな予感がするな…」
虫の知らせと言うのがある。
何の能力も持たない人間ですらそう言う予知能力があるのだから、それ以上に鋭敏な感覚を持つ吸血鬼が何も感じないわけがない。
そう、カイルが感じた悪い予感とやらは、これから始まる騒動をまさに予知していたのだろう―――
カイルの呟きが終わるか終わらないかの内に、彼らの足下で、ニャーと言う小さな声が鳴った。
「うん?」
黒い猫が、目の前で彼らをじっと見上げていた。
「わっ、キミ、どこから来たの?」
正体は猫であるケイは、喜んでその黒猫を抱き上げた。
猫は、ケイの腕の中でニャアニャアとひっきりなしに鳴いている。
「ん?なに?」
どうやら、ケイに何かを告げているらしい。
傍らのカイルは、そんな状況をぼんやりと眺めていた。
彼とて、意識すれば猫の会話を理解する事は出来るのだが、さっきの兄との思いも寄らない邂逅が未だ尾を引いていて、それどころではない。
「あれ?あんた…どこかで見たような……」
だから、黒猫と話すケイの様子の変化に、彼は気づくことが出来なかった。
突然、黒猫はケイの腕から飛び降り、すぐ側の路地に駆けていった。
そして入り口で止まると振り返り、またしてもケイとカイルに向かってニャアと鳴いた。
その声で、ようやくカイルは我に返った。
「ん?あの猫、呼んでるけど…知り合いか?」
「う、うん…。一応、知り合い…っぽい……」
いつも快活さがウリの猫娘らしくない濁った返答に、カイルは小首を傾げた。
よほど気が進まないのかのろのろと、それでも黒猫の元へと歩き出したケイの後を、カイルも一応付いて行く。
その様子を見て、黒猫が嬉しそうにもう一声鳴いた。
「どこまで行くんだ?」
先程から終始無言のケイの代わりに呟いたカイルの声に応えてか、大通りの喧噪が聞こえなくなるくらい奥まった路地まで来て、ようやく先を歩いていた黒猫の足が止まった。
そして――
「?!」
閃光が一瞬、暗い路地裏を昼と変えた。
魔力を帯びた光に、一瞬ケイとカイルの目が眩む。
そしてその光が緩やかに消えると、さっきまで黒猫がいた場所に、ほっそりとした影が立っていた。
腰までの長い黒髪、大きなチョコレート色の瞳、しなやかな肢体を一部覆う、黒い毛皮。
その姿は、細かい容姿や色こそ違えど、まるで――
「や、やっぱり…ノワール!」
目を丸くしたカイルを差し置いて、それ以上に眼を限界まで見開いたケイが叫んだ。
「お久しぶりね、ケイ」
ノワールと呼ばれた彼女は、悪戯っぽい笑みと共に、そう挨拶した。
キャットウーマンの同族に。